台風がやってきた。日本は今年たて続けにたくさんの災害に見舞われている気がします。
震災があってから、田舎暮らしを始めた人や、仕事を変えた人。いままでが、うそだったわけでもないけれど、本当の生き方にシフトしていく人をまわりでも数名いた。
生き方、というほど大仰なものではなくても、いままで考えてこなかったことを考えたりすることはそれぞれあったのではないかと思う。
地球の自然からのメッセージは謙虚に受け止めるしかない。
私が震災後していることは、、、「レッグウオーマーを編んでいること」と
「おいしいコーヒー豆」をおいしいコーヒー豆に出合えたときに、勝手に送ること。もういいですといわれるまで送るつもり。その両方とも実は私自身のライフスタイルに合っていて無理もなければ、負担もない。
レッグウオーマーはまだ形になっていないけど、編み針をほぼ持ったことのない人間のなのでイライラしつつ、いきつもどりつ編んでいる。でも編み続けるつもり。進化していけたらいいとおもっている。
おいしいコーヒー豆。わたしたちはどんなシチュエーションでも、休憩をしたり、ほっと一息つくときが人は必要で、それをどういうかたちでもつくらないと息がつまる。特に緊張する場所や状態がつづいているところこそ、いっぱいのお茶をのむ時間がどれほど必要かと思う。
不謹慎だとおもわれることも覚悟で、でもやっぱり送りたいと思う。しかも、自分も飲んでおいしいとおもったものでないといけない。
珈琲なんぞ、緊急事態であればあるほど嗜好品やそのたぐいのものとして後回しになるし、インスタントは手に入ってもおいしいコーヒー豆はあえて積極的にもとめるのは贅沢にうけとめられたりするかもしれない。
コーヒー(おいしいお茶)を囲むその場所では、それぞれが 無 あるいは充電できる場所である思う。
あーコーヒーのみてー。
第2回お遍路の準備をすすめています。
次は10月3日早朝 第11番札所からスタートです。
目標は、、ゆっくり丁寧に確実に、さあどこまでコマを進めるのか充実させれるのか。
るくさんとの出会いは、13年前。当時町をはなれ、電気もガスもない田舎暮らしをしている素敵な世界観をまとった美人な彼女をみて、憧れて、同じ名前 ナオコという響きにも似たような背格好であることもなんだか親しみを覚えた。
すぐに仲良くなって、踊りのことや舞台のことやいつも何時間でもしゃべっていた。(いまもだけれども)。
彼女がこころをきめてインドに渡ったときも、彼女が日本で不必要になったたくさんの電化製品や家財道具をもらって、私は一人暮らしに踏み切った。
なかがよいといっても、いつもいっしょという仲良しではなく、どちらかというと男同士のような小ざっぱりとした関係だったかもしれない。あいつががんばってる!おれも頑張る!的な。
すこしお姉さんのるくさんを、生意気なことをいうのはいつも私やけど、ほんとに何歩も先をあるいている背中をみながら、憧れながら来たかもしれない。
9年前?にさかのぼる。るくさんが決意しはじめてインドへ舞踊留学へいったとき、ダンスフェスティバルを見に、もちろん彼女に会いに、踊り仲間の姉さんと二人でインドへ旅行にいった。
旅行中のある日の印度での朝、太陽があさからがつっと照りつける、テラコッタの床の小さなるくさんのアパートで、すっかりスパイスにつかれた胃に味噌汁かなんかをつくってくれて、テーブルはないので、床で朝ご飯を食べながら、「踊りでしたいこと」の話をしていたことは覚えている。
そのシチュエーションは、ハッキリ覚えているが、その時にるくさんが四国巡礼をいつかすることが夢だったいった。(らしい)私はその時目を輝かせていた(らしい)。
んでもって都合のいい私は、そのエピソードの具体的なことを記憶にとどめず、自分の夢に勝手に置き換えていた。(よくやりがちではずかしい)。
時をへて、それがいつのまにか(わたしの勘違いもあいまって)二人の夢に置き換わり、一人ではできなくても二人なら力強くできるね。なんていつしか話し合うようになっていた。
「いつか、かならずやろうね」が合言葉。
そっから、こんだけの時間がながれるとは。。
一言でいうと、お互いの人生がなかなか忙しかった。ということと、時を経てすべて(心も体も状況も)がととのったのが今だったということ。
その間に何度も具体的に話し合うたび、話が行き詰まる。
うーん。無理かなあ。で終わる話し合い。
「無理やろ、①荷物はこべへんやろ。またあるときは、無理やろ、②人に迷惑かけるやろ、無理やろ、④全体的にぜったい無理あるやろ。④ハート折れるやろ。」
最後は、でもやっぱり、いつかできたらいいね。と言い合った。
何度目かの渡印前日、るくさんがまじめな目で、なおこさん帰ってきたら四国いこう。インドいって私が頑張ってる間、ちゃんと現地のこと、整えといてよ。といつになく大真面目に言った。
私は目を白黒させながらも、「やってみる」と答えた。
結果半年後 るくさんが帰ってきた。今年の1月。
何一つ具体的に動かず、無理な理由だけを重ね確信になっていた。
もうなーんもやりたいことなんてないよーん。とか、
巡礼って自己満足ちゃうん。だれにもみられへんところで淡々とやるのが修行ちゃーうん?とか、
いろんな自分のやりやすい答えをだしていた。
普段のんびりで、おだやかなるくさんがいつになく「なんか自分でもわからんけどあせってるねん。時間がない。本当にはじめよう。」と強く四国のことをいう。
「ごめん、なんにもしてない」といい、必死でそのいいわけをした。「どう考えても、むりやろう、本気で巡礼している人もいるし不謹慎ちゃうやろか。」「そもそも巡礼ってなに。」「するとしたら、ただの巡礼をする。踊りはしない」とはっきり言い切った。
そう、私はこのときに、その件に関してはシャッターを自らおろした。いつものやり方で。ナチュラルに。
「すごく、残念。一緒にやりたかったけど、でも私一人でもやるよ。」
その後、るくさんはそういったような気がする。
おいてけぼり。。やっぱり胸はいたんだけど、それすらもう私の中で自分の火を燃やすことはなかった。その日とその後の電話で、「ほんとにショックだった」というるくさんの声を聴いても、わたしのカチコチの心は、なんにも動かなかった。
もういいねん。
こころの扉が、静かにしまり。。。かかっていたのは確か。
本当は、すねて隠れてる自分を知っていたし、踊りに限らず、自身を信頼して前にでる力が不足していた。逆に言うと踊りはそれだけパワーが必要なものかもしれない。それゆえに、こんな曇った気持ちで、ましてや神や仏の前に出ることに、無理を感じたのかもしれない。
つづく
すぐに仲良くなって、踊りのことや舞台のことやいつも何時間でもしゃべっていた。(いまもだけれども)。
彼女がこころをきめてインドに渡ったときも、彼女が日本で不必要になったたくさんの電化製品や家財道具をもらって、私は一人暮らしに踏み切った。
なかがよいといっても、いつもいっしょという仲良しではなく、どちらかというと男同士のような小ざっぱりとした関係だったかもしれない。あいつががんばってる!おれも頑張る!的な。
すこしお姉さんのるくさんを、生意気なことをいうのはいつも私やけど、ほんとに何歩も先をあるいている背中をみながら、憧れながら来たかもしれない。
9年前?にさかのぼる。るくさんが決意しはじめてインドへ舞踊留学へいったとき、ダンスフェスティバルを見に、もちろん彼女に会いに、踊り仲間の姉さんと二人でインドへ旅行にいった。
旅行中のある日の印度での朝、太陽があさからがつっと照りつける、テラコッタの床の小さなるくさんのアパートで、すっかりスパイスにつかれた胃に味噌汁かなんかをつくってくれて、テーブルはないので、床で朝ご飯を食べながら、「踊りでしたいこと」の話をしていたことは覚えている。
そのシチュエーションは、ハッキリ覚えているが、その時にるくさんが四国巡礼をいつかすることが夢だったいった。(らしい)私はその時目を輝かせていた(らしい)。
んでもって都合のいい私は、そのエピソードの具体的なことを記憶にとどめず、自分の夢に勝手に置き換えていた。(よくやりがちではずかしい)。
時をへて、それがいつのまにか(わたしの勘違いもあいまって)二人の夢に置き換わり、一人ではできなくても二人なら力強くできるね。なんていつしか話し合うようになっていた。
「いつか、かならずやろうね」が合言葉。
そっから、こんだけの時間がながれるとは。。
一言でいうと、お互いの人生がなかなか忙しかった。ということと、時を経てすべて(心も体も状況も)がととのったのが今だったということ。
その間に何度も具体的に話し合うたび、話が行き詰まる。
うーん。無理かなあ。で終わる話し合い。
「無理やろ、①荷物はこべへんやろ。またあるときは、無理やろ、②人に迷惑かけるやろ、無理やろ、④全体的にぜったい無理あるやろ。④ハート折れるやろ。」
最後は、でもやっぱり、いつかできたらいいね。と言い合った。
何度目かの渡印前日、るくさんがまじめな目で、なおこさん帰ってきたら四国いこう。インドいって私が頑張ってる間、ちゃんと現地のこと、整えといてよ。といつになく大真面目に言った。
私は目を白黒させながらも、「やってみる」と答えた。
結果半年後 るくさんが帰ってきた。今年の1月。
何一つ具体的に動かず、無理な理由だけを重ね確信になっていた。
もうなーんもやりたいことなんてないよーん。とか、
巡礼って自己満足ちゃうん。だれにもみられへんところで淡々とやるのが修行ちゃーうん?とか、
いろんな自分のやりやすい答えをだしていた。
普段のんびりで、おだやかなるくさんがいつになく「なんか自分でもわからんけどあせってるねん。時間がない。本当にはじめよう。」と強く四国のことをいう。
「ごめん、なんにもしてない」といい、必死でそのいいわけをした。「どう考えても、むりやろう、本気で巡礼している人もいるし不謹慎ちゃうやろか。」「そもそも巡礼ってなに。」「するとしたら、ただの巡礼をする。踊りはしない」とはっきり言い切った。
そう、私はこのときに、その件に関してはシャッターを自らおろした。いつものやり方で。ナチュラルに。
「すごく、残念。一緒にやりたかったけど、でも私一人でもやるよ。」
その後、るくさんはそういったような気がする。
おいてけぼり。。やっぱり胸はいたんだけど、それすらもう私の中で自分の火を燃やすことはなかった。その日とその後の電話で、「ほんとにショックだった」というるくさんの声を聴いても、わたしのカチコチの心は、なんにも動かなかった。
もういいねん。
こころの扉が、静かにしまり。。。かかっていたのは確か。
本当は、すねて隠れてる自分を知っていたし、踊りに限らず、自身を信頼して前にでる力が不足していた。逆に言うと踊りはそれだけパワーが必要なものかもしれない。それゆえに、こんな曇った気持ちで、ましてや神や仏の前に出ることに、無理を感じたのかもしれない。
つづく
http://henrobito.com/blog/?m=20110905 四国お遍路3番札所で出合った方のブログです。
早朝の踊っているときに出合い、見ていただきました。短い時間出の出会いでしたが、歩きお遍路さんの迫力がありました。
お遍路さんのだいたいは、グループで7割、のこりは家族や小さな単位の方が1割、そして一人のお遍路さんが2割ぐらいだと思われます。(わたし調べです)。一人遍路のうち、男性がそのうち8割といったところでしょうか。
うち2割のおひとりのお遍路さん女子は、そうとう気になります。ぜったい気になります。友達になりたいぐらい気になります。
「なんで遍路なん?」って聞きたくなります。
私は、あんまり聞かれません。もはや。
「あんたやったら いきたいやろな」みたいなもので。しみついているのでしょう。意外性がない。ち。
私の遍路の理由は、物心つく前から祖母がお遍路に飛ぶが如く、しょっちゅう行っていて、帰るたびにもりだくさんの戦利品(おみやげもの)と、めちゃめちゃ楽しかったという言葉をきいて、きっとカリフォルニアのディズニーランドよりも面白いものがもりだくださんなんやと思い込んでいたのです。
きっと、いろんな祖母なりにいろんな思いがあったかもしれませんが、そいういったことを超えて、楽しいんやで。というメッセージしかなかった気がします。
中学生の時から、おへんろしたいというのは言ってたし思っていたことでした。
しかしながら、この年までごっつい時間がかかって実現していることと、なんでできなかったのかってことと、お遍路にでるまでの話をしたらたぶん10話ぐらいになりそうです。
パソコンこわれてアップできない るくさんのつなぎのつもりで、ちょっとずつ書こうとおもいます。
こっからはわたし(尚)の個人の話です。
踊りでお遍路。
こんな単純で、こんなに向こう見ずで、こんな大変で、こんなに難しいそして最高に幸せこと。。でも、この人生の中で必ずやりたいと願った8・9年前。たった一つ人生にはっきりとした夢がそれだった。時間を経て、もう今生ではできないかなあと思っていた。でもどこかで、踊りに心を傾けてきた私への、私が答えることができる唯一の行為がこのおどりめぐりつづりだと心の奥では知ってた。
数年前、すべてかなぐり捨てたい衝動からインドに渡ろうとして、その心は、「今」を認めたくなくて、弱い自分を捨てたいような衝動に近かった。だから最後の一歩はよういかんかった。
たったひとりで、どこに行くのかさっぱりわからないまま、冬に広い部屋でステップを踏むたびにいったい何をしているんだろう。どこに行くんだろう。しんどくてぼーっとなけてきたこと。それでも時々機会をいただいて、子どもたちの前でいっしょにおどりをたのしんだり、いろんな機会があるごとに心の底から嬉しい気持ちになった。
そんな生きてきた過ごしてきた時間ぜーんぶが、いま四国で私がささげられるもの。
立派でも余裕でもきれいでもない。人生のすべてが踊りにささげているなんて言えるはずもなく、
未熟ではずかしながらありのまま。
踊りめぐり巡礼は、わたしにとっては、めいわくかえりみない、精一杯大声の読経のようなもの、叫びにちかい心の奥底からでてくる言葉なのかもしれない。
奉納ってこんなんでいいのん?ばちあたれへんのんん。ずーっとそれを恐れていた。
人のためだとか、震災のことをいのってとかそんなきれいなことはまだ言えない。言葉にはできない。
みんながみんな、おどりめぐりに応援賛成してくれるわけでもない。
あんた、ええ身分やな。そんなに踊りたいんやったら、天満(大阪の商店街)でゲリラで88回おどってみいや。商店街でみんなにみてもらったらええやん。そんなにやりたかったら。なんもそんな気取ったことせんと。それがほんまの巡礼や。
そんなまっすぐな言葉を投げかけてきた人もいる。それもまた本当の言葉かもしれない。8年の間そう思われるんちゃうかということ、その実、自分の一部がそう思っているゆえにそういう言葉を恐れ続けてきた。でも今は、もうそこにぶれる気持ちはない。
そこを恐れることより、自分の人生に責任をもって、できることをできる時を逃さず、果たしていきたいと思う気持ちのほうがもっと大切だと思えるからだ。
つづく。。
早朝の踊っているときに出合い、見ていただきました。短い時間出の出会いでしたが、歩きお遍路さんの迫力がありました。
お遍路さんのだいたいは、グループで7割、のこりは家族や小さな単位の方が1割、そして一人のお遍路さんが2割ぐらいだと思われます。(わたし調べです)。一人遍路のうち、男性がそのうち8割といったところでしょうか。
うち2割のおひとりのお遍路さん女子は、そうとう気になります。ぜったい気になります。友達になりたいぐらい気になります。
「なんで遍路なん?」って聞きたくなります。
私は、あんまり聞かれません。もはや。
「あんたやったら いきたいやろな」みたいなもので。しみついているのでしょう。意外性がない。ち。
私の遍路の理由は、物心つく前から祖母がお遍路に飛ぶが如く、しょっちゅう行っていて、帰るたびにもりだくさんの戦利品(おみやげもの)と、めちゃめちゃ楽しかったという言葉をきいて、きっとカリフォルニアのディズニーランドよりも面白いものがもりだくださんなんやと思い込んでいたのです。
きっと、いろんな祖母なりにいろんな思いがあったかもしれませんが、そいういったことを超えて、楽しいんやで。というメッセージしかなかった気がします。
中学生の時から、おへんろしたいというのは言ってたし思っていたことでした。
しかしながら、この年までごっつい時間がかかって実現していることと、なんでできなかったのかってことと、お遍路にでるまでの話をしたらたぶん10話ぐらいになりそうです。
パソコンこわれてアップできない るくさんのつなぎのつもりで、ちょっとずつ書こうとおもいます。
こっからはわたし(尚)の個人の話です。
踊りでお遍路。
こんな単純で、こんなに向こう見ずで、こんな大変で、こんなに難しいそして最高に幸せこと。。でも、この人生の中で必ずやりたいと願った8・9年前。たった一つ人生にはっきりとした夢がそれだった。時間を経て、もう今生ではできないかなあと思っていた。でもどこかで、踊りに心を傾けてきた私への、私が答えることができる唯一の行為がこのおどりめぐりつづりだと心の奥では知ってた。
数年前、すべてかなぐり捨てたい衝動からインドに渡ろうとして、その心は、「今」を認めたくなくて、弱い自分を捨てたいような衝動に近かった。だから最後の一歩はよういかんかった。
たったひとりで、どこに行くのかさっぱりわからないまま、冬に広い部屋でステップを踏むたびにいったい何をしているんだろう。どこに行くんだろう。しんどくてぼーっとなけてきたこと。それでも時々機会をいただいて、子どもたちの前でいっしょにおどりをたのしんだり、いろんな機会があるごとに心の底から嬉しい気持ちになった。
そんな生きてきた過ごしてきた時間ぜーんぶが、いま四国で私がささげられるもの。
立派でも余裕でもきれいでもない。人生のすべてが踊りにささげているなんて言えるはずもなく、
未熟ではずかしながらありのまま。
踊りめぐり巡礼は、わたしにとっては、めいわくかえりみない、精一杯大声の読経のようなもの、叫びにちかい心の奥底からでてくる言葉なのかもしれない。
奉納ってこんなんでいいのん?ばちあたれへんのんん。ずーっとそれを恐れていた。
人のためだとか、震災のことをいのってとかそんなきれいなことはまだ言えない。言葉にはできない。
みんながみんな、おどりめぐりに応援賛成してくれるわけでもない。
あんた、ええ身分やな。そんなに踊りたいんやったら、天満(大阪の商店街)でゲリラで88回おどってみいや。商店街でみんなにみてもらったらええやん。そんなにやりたかったら。なんもそんな気取ったことせんと。それがほんまの巡礼や。
そんなまっすぐな言葉を投げかけてきた人もいる。それもまた本当の言葉かもしれない。8年の間そう思われるんちゃうかということ、その実、自分の一部がそう思っているゆえにそういう言葉を恐れ続けてきた。でも今は、もうそこにぶれる気持ちはない。
そこを恐れることより、自分の人生に責任をもって、できることをできる時を逃さず、果たしていきたいと思う気持ちのほうがもっと大切だと思えるからだ。
つづく。。
まずは、出会ったみなさんにありがとうございました。奉納舞、音楽をご多忙中のところ快く受け入れてくださったお寺のみなさん、声をかけてくださった参拝のみなさん、お接待をくださった方、車に乗せてくださったかたがた、そしてその場をともにしてくださったみなさんに、無事におどりめぐりつづりがスタートできたこと、そしてかけがえのない体験をさせていただいたことをまずもって、御礼申し上げます。
固い文章にになりましたが。ほんとうにありがたいきもちでいっぱいです。
台風の被害が甚大であったことを、巡礼中のテレビで知りました。
四国は台風の通過経路だったこともあり、4日当日は明石海峡大橋までは豪雨で、途中高速バスが通行止めになり、下道をゆっくりすすむなか、到着予定より、かなり時間を押しての四国入りだったのでどうなるかとおもったのですが、第一番札所につくころには青空になり、以降3日間晴天(あつすぎるぐらい)の中、2泊3日で10ケ寺目、切幡寺の奉納までさせていただきました。
もちろん3名(踊り手2名、能管奏者1名)だけのちからでは到底できなかったことです。
偶然の出会いの中で、応援してくださったかたがたのおかげです。ひたすらありがたいです。
もっとも今回の旅の中でおせわになったこばさんのブログです。写真もアップしてくださっています。
http://ykoba84.exblog.jp/13511554/
団体の参拝の方の多さに驚いたり、めまぐるしく衣装を着替え倒したり(笑)、にわか雨にふられて足の中指がいたくなって肩がちぎれるんじゃないかとおもう重さの荷物を持ってきたことに後悔したり、気を取りなおして歩いたり、お寺のご住職さんはじめ、お寺のかたがたから、親切で優しい言葉をいただいたり、お数珠やお茶などのご接待をいただいたり、また奉納では、早朝からおどらせてもらったり、山を望みながらおどらせてもらったり、夢としか思えないような時間をいただいたり、助けていただいたりと、感謝のきもちでいっぱいです。
書きたいこともたくさんあるし、またゆっくりと報告しゃしんもアップしたいところです。
四国でのスタートをほんとうに、お大師様がみていてくださっていたように感じました。
ザ安心。ありがとうございました。
また気を引き締めつつ、楽しみにしつつ、へんろころがされに四国では難所とよばれるゾーンへ第2回は向かいます!
いよーし楽しみ。尚
固い文章にになりましたが。ほんとうにありがたいきもちでいっぱいです。
台風の被害が甚大であったことを、巡礼中のテレビで知りました。
四国は台風の通過経路だったこともあり、4日当日は明石海峡大橋までは豪雨で、途中高速バスが通行止めになり、下道をゆっくりすすむなか、到着予定より、かなり時間を押しての四国入りだったのでどうなるかとおもったのですが、第一番札所につくころには青空になり、以降3日間晴天(あつすぎるぐらい)の中、2泊3日で10ケ寺目、切幡寺の奉納までさせていただきました。
もちろん3名(踊り手2名、能管奏者1名)だけのちからでは到底できなかったことです。
偶然の出会いの中で、応援してくださったかたがたのおかげです。ひたすらありがたいです。
もっとも今回の旅の中でおせわになったこばさんのブログです。写真もアップしてくださっています。
http://ykoba84.exblog.jp/13511554/
団体の参拝の方の多さに驚いたり、めまぐるしく衣装を着替え倒したり(笑)、にわか雨にふられて足の中指がいたくなって肩がちぎれるんじゃないかとおもう重さの荷物を持ってきたことに後悔したり、気を取りなおして歩いたり、お寺のご住職さんはじめ、お寺のかたがたから、親切で優しい言葉をいただいたり、お数珠やお茶などのご接待をいただいたり、また奉納では、早朝からおどらせてもらったり、山を望みながらおどらせてもらったり、夢としか思えないような時間をいただいたり、助けていただいたりと、感謝のきもちでいっぱいです。
書きたいこともたくさんあるし、またゆっくりと報告しゃしんもアップしたいところです。
四国でのスタートをほんとうに、お大師様がみていてくださっていたように感じました。
ザ安心。ありがとうございました。
また気を引き締めつつ、楽しみにしつつ、へんろころがされに四国では難所とよばれるゾーンへ第2回は向かいます!
いよーし楽しみ。尚

