当時の医学教育制度は戦前の旧制度から戦後の新制度への移行期で、私達の在学所属は、“千葉大学千葉医科大学医学部医学科”とゆう、ながーい名前であった。
最終学年は4年で、その第3学期は1月から3月まで、すべてが、卒業試験のスケジュールにあてられていた。
臨床学(内科、外科から精神科まで全科)のほか、病材示説とゆう独特の試験が有った。
これは、その当時の病理学者として名高かった滝沢教授と1対1で、そのとき示されたホルマリンにつけられた病理標本についての口頭試問をうけるのである。
病名の診断の根拠をマクロからミクロまで説明したうえで、その病因論まで言及し、予防治療まで質問される。
大変厳しい先生で曖昧な答をすれば、ビーコン(ドイツ語のWieder Kommen ビーダー コンメン もう一度お出でといわれること。つまり落第。)
一度でパスするのは至難といわれていて、級友のだれもが戦々恐々としていた試験があり、これが卒試の山場とされていた。