戦後生き残された人間の一人としてこれらの状況をまとめて、誤りなくその真実を後世に伝えようと考えて書き始めました。
大東亜戦争と呼ばれていた戦争の末期には、我が国は完全に制空権を奪われて、サイパン島から飛来するB29という大型爆撃機により、1万メートル以上にも及ぶ高度からの爆撃に昼夜をとわずさらされていました。
高射砲は届かず、迎撃戦闘機は1万メートルまで上昇する力なく蹂躙されるがままの状態で悔しくてたまらない思いがありました。
その上、航空母艦からの艦載攻撃機による爆撃や機銃掃射まで受ける状態にまで至ってきておりました。
事実、兵学校も機銃攻撃で生徒に死傷者がでるという事態が発生し、校舎の背後に聳える有名な古鷹山にトンネルを掘り、その中に学校を移転させる計画を立案し工事に取り掛かっていました。
我々生徒も学業の合間に、昼夜兼行でこの作業に駆り出されておりました。
工事は人力でツルハシなど使い岩石にあけた穴に爆薬をしかけ所謂発破作業で行われていました。
1945年(昭和20年)8月6日は晴天で朝からジリジリと暑い日ざしが照り付けていました。
私はその日のトンネルでの作業開始前に上級生徒(1号)に「近藤は昨日欠けたツルハシを工作所まで持参して修理して貰ってこい。」と命令され、これを肩にかつぎ一人でトボトボと一般道を歩いて兵学校の工作所に向かいました。(工作所というのは、校内の修理部門の工場)その時間は正確に把握していませんが7:30前後でした。
その道の途中に古鷹山を貫通する形で、比較的長い御殿山トンネルがありました。
まさにその中を歩いていたその時でした。
電灯はなく真っ暗闇だったのに、瞬間的にパツとまわりが赤紫の色となり、耳が両方とも殴られたような感じでガーンとしてしまったのでした。
「これは近くに爆弾が落ちたのか?おかしいな?たしかトンネルの出入り口には二重の隔壁で塞がれていたはずだが?」
トンネルから出て周辺を見渡したが煙もないし被害があった形跡もない。
「これは錯覚だったのか・・・・・・」
と思い歩き出したその時、大勢の民家の人々が血相を変えてトンネルに向かいなだれ込んできた。
口ぐちに「生徒さんなんでしょう???」と問いかけてきた。
その時たまたまトンネル出口が広島の方向を向いていたのだが、そこに巨大なキノコ状の入道雲がみえたのだ。
色は真っ白、中心部は今でも眼にうかぶのだが、赤身を帯びた薄紫色だった。
それは、極めて美しい、美しい色であった。
その下で阿鼻叫喚の地獄絵のような大惨事が起きていたなどとは到底想像することはできなかった。
美しさに見ほれるほどの巨大な白い朝顔、その中心には薄赤紫色の芯がある。その色と形のバランスが言葉では言い表せないほど絶妙で見ほれてしまうほどでした。
不謹慎な表現だと自分でも思いましたが、此れが真実でした。
何事が起ったのか全く見当がつきませんでしたが、大爆発が起きたことに間違いない。普通の爆撃によるものならば、黒い爆炎が上がり火薬の臭いがするはずだがこれが全くない。おかしいなあ???
という感じはもっていた。
その後数日してから広島に特殊爆弾が落とされた。原子爆弾という言葉は使われなかった。
強力な光とこれに伴う高熱、爆風などによる被害が大きいのでこれからは敵機が1機飛来しても空襲警報を発令する。(それまでは警戒警報で防空壕には入らないで済ませていた)
これからは防空壕に向かうときには白い物を被って速やかに行動せよとの命令がでた。
今思えば噴飯ものだがその後は、白いものといえば寝間着、風呂敷くらいしかなく、此れを被り防毒面を持って退避したものだった。