院長の特別ブログ『広島原爆の瞬間を体験し原爆雲をこの目で見た』 | *ルビーテッククリニック*院長のコラム

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始めに・・・

このブログを読まれている皆々様、今年は暑いですね。

心からお見舞い申し上げます。

体調管理をしっかり行いこの夏を乗り越えてくださいね。


さて、8月がまた巡ってきました。

私の年代にとり8月は敗戦の苦痛を思い出す月です。

終戦前のトップニュースはヒロシマ原爆攻撃でしょう。

8月6日がまた来ますね。


私が目で見て肌で感じ体験した原爆のこと特別ブログとして連載していきます。

もちろん、ノンフィクションです。


1945年8月6日は原子爆弾を人類が初体験した悲しい日であります。


当時広島市の人口は35万人と推定されていますが、そのうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされています。


その大多数が非戦闘員(人口の35万人のうち居住一般市民約29万人、市外からの来訪者約2万人、軍関係者は約4万人)であったと考えられ全く言葉を失うほど哀れで悲惨な事実でした。


その場にいた人達の実に、2~4人に一人が犠牲者となったのです。


私はその歴史的瞬間を体験し爆発による爆風と閃光を体感し目前にあの原爆きのこ雲を目視しました。


私の一生忘れられない光景で、今でもまざまざと思い浮かべることができます。

その日に、いわゆる原爆きのこ雲を実際に見た人の数は、あれから68年も過ぎた今となっては、殆どいなくなってしまつたものと思われます。


市内やその周辺で被爆した方々の大半は瞬時にその命を奪われ、運よく生きながらえた人々は、その後の原爆症の様々な症状に苦しまなくてはなりませんでした。


おそらく原爆きのこ雲を見るゆとりなどは全く無かったと考えられます。


私は当時、江田島の海軍兵学校に第77期生徒(1年生=3号)として在学中でしたが、運命の悪戯かその瞬間を体験し、終戦後の復員時にも8月22日ころに、原爆被災約2週間後の広島市内を経由し、その悲惨な実状を目撃してから帰郷しました。

それは全く無残で眼にしたくない地獄のような光景でした。


見渡す限り瓦礫と焼け跡、まだ黒焦げの焼死体も散乱する焼野原、周辺の山々はすべての木々は茶色く枯れ果てて、緑は一点も見当たらず、とても夏の景色とは思えませんでした。


市内には例えようもない悪臭がただよい、すべての煙突は皆ポッキリと折れて、建物らしきものは広島駅は鉄筋だったので,一階だけ残り微かに遠望できた記憶があります。


帰郷の時には、江田島から船で宇品港に着き、市内電車は動いていてそれに乗り込み広島駅に向かった途中で見た光景でした。


この市内電車が復旧していたか否かは、同分隊の3号に確かめたが間違いではないようでした。


あまりの物凄い惨状に気が動転した為かその後無蓋の貨物列車にのせられて、24時間以上かけて東海道線の郷里の駅にたどり着いたのでしたが、その後の記憶が曖昧になっています。


その途中で飲食したりトイレに行った記憶がないのは、未だ少年時代で、強度のショツクを受けた為でしょうか?


覚えていることといえば、石炭を焚いて走る、今では人気のSLに引かれていたので、長いトンネルに入ると煤が目に入り痛かったことや、煙を吸い込んで息苦しくなったことなどの、辛かった事のみです。