Buon giorno みなさん♪
教会に入ると必ずお目にかかる磔刑図。
今日はこの図柄を通してルネサンス前と後とのスタイルの違いについてお話しします。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にかかっている磔刑図。
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フィレンツェ観光の名所ウフィツィ美術館。
対岸から見たウフィツィ。明かりが灯ってとても綺麗。
ここの特徴は年代別に絵が並べられているところです。
知らなければ「ふーん」という感じなんですが、よく見ると入り口から「コ」の字型に曲がって向かい側へ進み、下の階に下りるにつれてどんどん時代が新しくなっていきます。
まず一番最初の部屋で目に飛び込んでくるのがこちらの絵です。
1180~1200年ごろに描かれた磔刑図です。
イエス・キリストは真正面からこちらを見ていて、正直、あまり痛くなさそうです。
よく見ると、血も出ていません。
あれ、磔刑って手と足に釘を刺されて脇腹を槍で刺されるんじゃなかったっけ?
そう、脇腹の傷もここには描かれていません。
この図はキリストが「死」に打ち勝つということを表しているそうです。
この時代はまだまだ中世の真っ只中。
この世は神の世界に行くまでの仮住まいのような形で、ひたすら祈りが重視される時代でした。
従って神様は人間からはかけ離れた恐れ多い存在です。人間とは異なった感覚を持っています。
そして血肉を超えた存在として捉えていました。
それから約50年・・・磔刑図はこのように変化します。
1240年ごろに描かれた磔刑図です。
こちらはとても辛そうです。見ているこちらまで痛みが伝わってきます。
手、足、脇腹すべてから血が流れています。
そして体も腹筋など筋肉の線が描かれています。
そう、こちらは人間の体を持っているのです。
その前の絵と比べてください。
前の絵は「痛み」より「畏れ多さ」というものが強く感じられます。
こちらは痛みを共感できる気がするのです。
イエス・キリストも同じように痛みを感じていた、という捉え方です。
通常ルネサンスは1400年代から始まったと言われていますが、ある日急に描き方が変わるわけではありません。
こちらはルネサンスの先駆けとなったジョットの作品。
1280年ごろの作品ですが、体の描かれ方がもう「人間」です。
前の作品でも人間の体らしくはなっていましたが、この作品では触ったらちゃんと人間の肉体を感じられそうな気がします。
それからルネサンスを経て200年。
1540年代に描かれた十字架を背負うキリストの図です。
もう、こちらは完全に人間です。
光輪があるからキリストとわかるものの「神」の側面より一人の悩める青年としての側面が強く感じられるのです。
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ではどうしてこの痛々しい図がこれほどまでたくさん描かれるのでしょう?
それは旧約聖書にはじまります。
創世記ではアダムとイブが神から禁じられていたにも関わらず、善悪を知る木の実を食べてしまいます。
そして神に問われた時に、2人とも自分の罪を悔い改めるのではなく、相手のせいにしてしまいます。
それが原罪のルーツです。
上の方に描かれているのが楽園を追放されるアダムとイブ。
以前フラ・アンジェリコの記事でも触れましたが、伝統的には受胎告知にも楽園追放のシーンが描かれました。
フィレンツェの近郊コルトーナにあるフラ・アンジェリコの受胎告知。
左上に小さく楽園追放が描かれています。
というのは、救世主キリストの誕生というのは原罪から人類を救うことを意味するからです。
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キリストは自分の死を予感して、最後の晩餐でぶどう酒を分け与えながら弟子たちにこう言います。
「これは罪の許しを得させるようにと多くの人のために流す契約の血である」
カスターニョの最後の晩餐を紹介した時にも触れましたが、最後の晩餐と十字架は人間の救済を表します。
最後の晩餐でキリストが約束(契約)
そして実際に磔刑(実行)
この2つにより、人間の原罪はキリストによって贖われたのです。
キリストの磔刑図は罪深い人間の救済と許しを表しているのです。
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教会に入ると磔刑図の前で跪いて祈っている人をよく見かけます。
茨の冠を頭上にいただき、十字架に磔にされるキリスト。
どうしてこの痛々しい姿に人は跪くのでしょう。
誰しも生きていれば悲しいこと苦しいことつらいことに苛まされます。
時には人の裏切りも経験するでしょう。
そんな辛さを誰がわかってくれるのか・・・
キリストは他人の罪のために磔刑に処されました。
僕、私のせいじゃないのに・・・
そんな誰にもわかってもらえない辛さをわかってくれる・・・
あるいは自分がしてしまったことに対して罪の意識にさいなまされた時。
こんな悪いことをしてしまった自分を許してほしい・・・
誰にも言えないそんな悩み。
キリストの磔刑による人間の救済はそんな身近なところにあるのかもしれません。
人々がこの痛々しい姿を前に跪くのは
痛みをわかってもらえるという救済
どんな罪でも贖われているという許し
を感じるからではないでしょうか。