フィレンツェ☆勝手に美女図鑑! シモネッタ・ヴェスプッチ | フィレンツェ観光ガイド 加藤まり子 in 東京

フィレンツェ観光ガイド 加藤まり子 in 東京

フィレンツェ観光ガイドの資格を2016年に取得しました。
現在は都内で美術の鑑賞の仕方を教えています。
詳しくはホームページから。
http://mariko-no-heya.com/

さてさて昨日はフィレンツェの至宝中の至宝、ボッティチェリの
ヴィーナスの誕生
について紹介しました。


今日はそのモデルになった女性
シモネッタ・ヴェスプッチ
についてのお話です

貝に乗って海から現れる様はとっても清純で心洗われます
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さてさてフィレンツェきっての
絶世の美女
と謳われた彼女はどんな人物だったのでしょう?
そしてどのようにしてボッティチェリのモデルとなったのでしょう?





イタリアのルネサンスが主に栄えたのは1400~1500年代と言われています。
そして新プラトン主義に代表される人文主義が盛んだったフィレンツェはその中心地でした。

特に1400年代はフィレンツェでルネサンスがまさに花開いた頃。
年表を見ても現在のフィレンツェの観光地がすべてこの頃に出来ています。
1434年 ブルネレスキによるドゥオモ完成
1438年 フラ・アンジェリコが
サン・マルコ寺院の壁画を着手
1452年 ギベルティによる「天国の門」完成
1477年 ボッティチェリが『春』を着手

そして『ヴィーナスの誕生』は1484年に完成しました

これらの芸術作品はメディチ家のなしには生まれなかったといっても過言ではありません。
フィレンツェ一の財力と権力、それに加えて審美眼の備わったメディチ家。
その中でもロレンツォ豪華王(1449~1492)の時代は芸術が花開いた時代でした。

ロレンツォの弟のジュリアーノは当時一番と言われたイケメン。

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お家柄、財力、そして美男子
日本でいうと光源氏のような感じでしょうか(次男だし)。
当時の女子のキャァキャァぶりが目に浮かびます


そしてそんな彼と噂されたのがシモネッタだったのです。

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当代きってのイケメンと絶世の美女のカップル
当時のフィレンツェ人たちの格好のゴシップだったと思います。

といってもシモネッタちゃん、人妻なんです

ジュリアーノとの噂の元になったのは、彼が騎馬戦に出場した時。
フィレンツェっ子たちが一番盛り上がるこのイベントで、ジュリアーノは勝利を捧げる貴婦人としてシモネッタを選びました。

そして彼女を描いた旗を先頭に入場したのです。


その旗を描いたのが
ボッティチェリ
でした。

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美しいシモネッタに会ったボッティチェリは大いに芸術家魂に火をつけられたようです
終生ミューズとして彼女を思い続けたと言われています。





しかしいつの時代も美人は薄命。
イケメン・ジュリアーノから貴婦人に選ばれた1年後、シモネッタは23歳の若さで亡くなってしまいます。

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そしてジュリアーノもその2年後、ライバルの手にかかって命を落としてしまいます。
享年25歳。奇しくも愛を捧げたシモネッタと同じ命日でした。





ちょうどこの頃ボッティチェリは『春』の制作に取りかかっていました。
メディチ家からの依頼と言われるこの作品。

ボッティチェリは二人の恋をこの絵に描いたと言われています。

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左端にいる男性がジュリアーノ。
三美神の真ん中の「貞節」がシモネッタ。

シモネッタはジュリアーノを見つめ、頭上のキューピッドはシモネッタに向けて矢を放っています。

若くして亡くなった二人・・・
ボッティチェリの手によって永遠の命を得ることができました。





亡くなった後もボッティチェリのミューズであり続けたシモネッタ。

「僕が死んだらシモネッタの側に葬って」

その言葉通り、ボッティチェリのお墓はシモネッタと同じ教会の中にあります。

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祭壇の前にはボッティチェリへのメッセージがたくさん置かれていました。

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そして私も納めさせていただきました。

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なんといっても彼の作品が私をフィレンツェに引きつけたのですから・・・

そして彼の原動力となったシモネッタの存在も私にとって大きな存在です。





シモネッタ、実は日本でも会えるんです。
丸紅さんに日本で唯一のボッティチェリ作品が保管されています。
その名も『美しきシモネッタ』。

2016年1月から4月まで東京都美術館で開催されるボッティチェリ展で展示されます。
ルネサンス芸術をインスパイアした絶世の美女
ご興味のある方はぜひ会いに行ってください