「恥」という心を失っている現代人 | 一灯照隅万灯照隅

一灯照隅万灯照隅

よろしくお願いしますm(__)m


今回は具体的に過ちを改めるにはどうすればいいかということからお話を始めて行きましょう。大事なことは3つあります。第一に恥ずかしいという心を起こすこと、第二は畏れる心を起こすこと、そして第三に勇気をふるい起こすことです。

まず、恥ということですが、孟子も「恥づる心ほど人間にとって大事なものはない」といっています。とにかく、現代人ほど恥を忘れた人間もいないでしょう。たとえば、タバコを道路に捨てて平気な顔をしていたり、駐車違反をしても「みんなやっているでしょ」とまったく悪びれることもありません。電車のなかでは、長い足を通路にほうりだして、ふんぞりかえり、お年寄りが乗ってきても席を譲ろうとしない若者たち。みんな「恥」ということを忘れているのです。「こういうことをしたら恥ずかしい」という心をなくしたら、もうその人は人間ではなく動物と同じです。恥じるという心をもっていると、つねに自身を反省して精進するようになり、やがては聖人や賢人の域に達することができますが、恥の心を失うと反省することもありませんから、精進もしないし動物のような生活になってしまいます。恥じる心を起こすことは、過ちを改めるうえで、もっとも大事なことなのです。

そして、恥と敬とは一対になっています。恥を知れば、かならず敬を知るというのです。敬ということは、より高き尊いものにたいする人間の自然の感情です。敬う心があれば、自身を反省して恥じるようになります。人間と動物の違いも、つきつめると恥を知っているかどうかになります。ですから人をののしる場合にいう言葉として一番よく使われるのが「恥知らず」なのです。

第二の畏れる心というのは、私たちの上には天地鬼神というものがいて、それを欺くことは絶対にできないから、そうした力をおそれるということです。天地鬼神とは、言い換えれば大自然の法則のことでその法則からは誰しものがれることはできません。たとえ、人が見ていないからと悪いことをしても、大自然の法則はきちんと見ているのです。それはどういうことかといえば、悪いことをしても誰も見ていなければ法律で罰することはできないかもしれません。しかし、悪いことをしたという因は、その人の心のなかにかならず刻みこまれるのです。これが因果の法則なのです。悪い原因であれば、結果がよくないというのは道理です。ですから、人間はつねに謙虚でなければならないのです。ここで詳しく述べる余裕はありませんが、人間社会の法律に罰せられるより、因果の法則によって受ける罰のほうが恐ろしいことは、よく知っておいてください。

三番目は、勇気をふるい起こすことですが、人が過ちを改めないで、だらだらとした生活をつづけるのは、怠惰で姑息な心に負けているからです。そうした心を打ち破るには、奮然と勇気をふるい起こさなければなりません。

その恥心(ちしん)、畏心(いしん)、勇心(ゆうしん)の三つの心をそなえれば、たとえ過ちがあっても、春の氷が日に照らされて消え去るように消えてしまうのです。