どんな世の中になろうと、また、自分がどんな仕事や立場に立とうと、私たち人間を取り巻く自然の理法は変わりません。社会がおかしくなればなるほど、自然の理法にのっとった「立命」を目指す生き方が大事になってくるのです。それを仏の教えでいえば「一灯照隅」ということになります。
めいめいが一灯となって、それぞれの、一隅を照らしていく、自分の持ち場を十分活かすと同時に、その日その日の自分の使命・責任を果たしていく、これよりほかに道はありません。
自分一人が善いことをしても、世の中は少しもよくなりはしないと思って何もしないのが一番いけないのです。どんなささやかなことでも、どんなに役立たないように思えることでも、自分が善と信じることに身を挺して、自己を犠牲にして尽くすことが大事なのです。
易経には「積善の家必ず餘慶(よけい)有り」と書かれています。すなわち、善を積んだ人のいる家は、かならずその餘慶(祖先の徳の報いとして、子孫が受ける幸福)が、のちのちまで及ぶということです。
昔から中国では、善を実行し徳を積むと、その人ばかりか子孫一族まで幸せが訪れると考えられていました。それを信じるかどうかは個人の考え方によるでしょうが、別の面から見れば、たとえば親が善いことをしている家庭があるとします。
そうした家庭では、子供は自然と親のおこないを見て育ちます。その結果、親がしていることを自分もするようになります。
これは、一種の精神的な遺伝といっていいでしょう。ですから、子供たちも人間らしい生き方、言い換えれば幸せな人生を歩むことになるわけです。
自分のことだけしか考えない現代人について、もう一度見直して見る必要があるのではないでしょうか?