相模原市障害者福祉施設大量殺人犯植松聖の犯行心理 | ■ある中年男の日常■(人事と人智を尽くして天命を待つ生き方さえすれば勝ち負けなどどうでも良いではないか)

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あまり肩肘張らずにその日の出来事や思った事、共感した事・感動した事をブログに載せてみたいと思います。

相模原市の障害者福祉施設で起きた19人の殺害事件。

犯人が元職員だったから職場に不満や恨みがあったのが原因かと思ったが衆議院議長に障害者の殺害予告を出したり友人に殺害を持ちかけたりしたのを見ているとどうやら劇場型の犯行のように思えてくる。

一番のポイントは犯行後に殺害後の感想をSNSに投稿している事だ。

犯行の植松聖は障害者を排除したナチスの思想に共感したのは間違いないがそれを実行する事を敢えてしたのは注目を浴びたいという自己顕示欲からだろう。

今まで自己顕示欲の為に冷蔵庫に入ったり危険を冒して高い所でポーズを取る馬鹿もいたが遂に殺人まで実行する人間まで現れたという事だろう。
無論それだけではなく体に大きな入れ墨をいれてしまい希望していた教師の道も閉ざされた挫折感やこれからもそれを背負っていく絶望感からヤケクソになっていたのも原因だろう。

どうせ生きていても希望が無いと思った犯人が大きな犯罪を犯して世間から注目を浴びたいと思った末の犯罪だ。

犯人は精神異常者を演じていた否百歩譲って本心から障害者を抹殺する事が国の為だと思っていたとしてもだからといって障害者を殺す権利は無いし犯罪だという自覚はあった筈である。

警察に通報されると思ったから犯行を途中で止めたという供述からも犯罪を自覚していたのは間違いないだろう。

さて犯人には責任能力はあった。
すなわち善悪の判断はあったと思われるのだがそれならば犯人を止める手段はなかったのだろうか。

無論犯行の手口まで具体的に暴露していたのだから警備上の対策は出来たであろう。

しかしそれにも増して障害者に対する考え方を変えさせる方法は無かったものだろうか。

犯行のあった施設の園長は犯人に対してそれはナチスの思想と同じだよとたしなめたそうだがそれは犯人の思想を批判しただけで障害者に対しての認識を改めさせた事にはならない。

私が昔少しだけ通っていた教会で牧師が障害者について『障害者は健常者が障害者を見て可哀相だという感情をもたらす為に必要だから与えられたものだ』と言っていたが他人を思いやる心を養う為に障害者は社会に必要な存在である。

もし犯人の植松に障害者の存在意義をそして神がそれを与えられたのだと教える人間がいたならば彼は犯行を行わなかったかもしれないと思う。

亡くなった方々とその遺族の事を思うと未だに心の痛む事件である。