鎌倉殿の13人:承久の乱 編

 

 遂に武都鎌倉の覇権を握った義時は、王権回復を目論む後鳥羽院と対決の時を迎える。

 鎌倉バトルロイヤルを制した義時と御家人たちは果たして武士の国を守り抜くことができるのだろうか、

 

■第ニ部(第二十五~最終回)) ※7~12月ごろ
 第ニ部では、鎌倉殿(頼朝)の亡き後、主人公の義時が武都鎌倉における有力御家人間の相克を制し、覇権を握るまでを描く。

 

 第五章 承久の乱 編(第四十五~四十八回) ※12月

  かつての盟友・和田義盛を倒し、執権に加え、侍所別当の座をも手に入れた義時には、もう鎌倉に競争相手はなく、政子の後押しの下、その立場は揺るぎないようにも見えた。

 

  第四十五回 陳和卿

   建保二年(1214)十一月、前年に乱を起こした和田の残党が頼家の遺児・栄実を擁立し、反逆を企てていることが発覚し、一網打尽となる。翌三年正月、伊豆からの飛脚が義時の父・時政の死を伝える。
   翌四年六月、鎌倉殿(実朝)は、鎌倉を訪れていた宋人の陳和卿を御所に呼び、彼と対面する。


  第四十六回 公暁

   建保四年(1216)九月、義時と大江広元は高位高官を望む鎌倉殿に諫言するが、鎌倉殿は複雑な心情を吐露する。同年十一月、鎌倉殿は唐へ渡りたいと、唐船の建造を陳和卿に命じた。

   翌五年五月、鶴岡八幡宮別当の定暁が病死し、翌月には、園城寺から戻った公暁が後任の別当となる。

 

  第四十七回 実朝暗殺

   建保六年(1218)三月、鎌倉殿がかねてから熱望していた左近衛大将に任じられた。このとき、鎌倉殿は義時の嫡子・泰時にも讃岐守への任官を持ちかけるが、泰時はこれを固辞する。

   同年十月、鎌倉殿は内大臣、尼御台は従二位に任じられる。さらに二ヶ月後には鎌倉殿は右大臣に任じられ、年も改まった建保七年正月二十七日、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀式が執り行われる。

 

  第四十八回 承久の乱

   建保七年(1219)二月、幕府は宮将軍の下向を朝廷に申し入れる。一方、駿河国では

阿野全成の遺児・阿野時元が蜂起するが、間もなく鎮圧される。

   同年七月、故頼朝の遠縁に当たる九条三寅(頼経)が新将軍として鎌倉に下向した。幕府は、三寅が成人するまで政子が垂簾聴政すると宣言する。

   承久三年(1221)五月、後鳥羽院は義時追討の院宣を下し、挙兵する。
 

 最終章 武士の国 編(最終回) ※年末

  最終回 武士の国

   貞応元年(1222)五月、義時は三浦に逍遥し、三浦義村は彼を歓待する。

   同三年六月十ニ日、執権・北条義時は病に倒れ、翌十三日卒去した。享年六十二。

   嘉祿元年(1225)六月には大江広元、翌七月には政子も卒去するが、北条泰時の下、もう武都鎌倉は盤石だった。貞永元年(1232)五月、執権・北条泰時は御成敗式目を制定し、武士の国の礎とした。

 

 

 【配役】

   〇北条家の人々  主人公・義時との関係

   北条義時(59):小栗旬さん (本人)

   北条泰時(39):●  嫡男

   北条時房(48):●  実弟

 

   ○鎌倉殿とその家族

   北条政子(65):小池栄子さん

   源実朝(28):● ※享年28(1219年)

   公暁(20):● ※享年20(1219年)

   栄実(-):● ※享年14(1214年)

   阿野時元(-):● 

   九条三寅(4):●

 

  〇御家人たち

   三浦義村(-):山本耕史さん

   三浦泰村(-):●

   安達景盛(-):●

   大江広元(74):栗原英雄さん

   三善康信(82):小林隆さん

   山内首藤経俊(85):山口馬木也さん

 

  ○京都の人びと

   後鳥羽上皇(42);●

   土御門上皇(27):●

   順徳上皇(25):●
   仲恭天皇(4):●
   慈円(67):●

 

   藤原秀康(-):●

   三浦胤義(-):●

   後藤基清(-):●

   佐々木経高(-):●

   山田重忠(-):●

 

  ※()内は承久の乱(承久三年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定

 

江戸の数字を楽しむ(2)

 

 今回の記事では、江戸時代のお金に関する数字、必殺シリーズでお馴染みの中村主水ら幕府のお役人のお給料に関する数字についても、書いてみようと思います。

 

■貨幣の単位について

 江戸時代には、金貨銀貨銭貨の、三種類の貨幣(三貨)が通用していました。金貨は金の含有量に関係なく、額面がある計数貨幣で、銀貨は重さを量って使用する秤量貨幣でした。金貨の額面に用いられる単位は四進法一両四分一分四朱となりました。また、銭貨は千文一貫文といいました。秤量貨幣である銀貨の単位は、約三.七五グラム)でした。

 他に、儀礼や贈答用に用いられる単位として、金一分を金百疋、銀四十三匁を銀一枚と称しました。

 

 一方、三貨の交換比率は、幕府による、慶長十四年(1609)の公定相場では、金一両が銀五十匁、銭四貫文でしたが、金が高値となった為、元禄十三年(1700)の公定相場では、金一両が銀六十匁に改定されました。また、天保十三年(1842)には、市場の相場に追随して、金一両が銭六貫五百文に公定されています。

 では、金一両現代の貨幣価値に換算するといくらぐらいになるのでしょうか。有り体にいえば、身分制の、社会構造も、経済システムも、価値観も、生産力や技術力も異なる世界の貨幣の価値を現代のそれに置き換えたところで、まるで無意味だとは思います。しかし、あくまでも時代劇を楽しむための、一つの手がかりとして考えてみます。日銀の貨幣博物館(下記参照)では、目安として、米価を基準に換算した金額(六三、,〇〇〇円)、大工の賃金を基準に換算した金額(三四五,〇〇〇円)などを紹介しています。何を基準にするかでずいぶん違ってきます。

 

 東京大学史料編纂所の故山本博文さんは、あくまで目安とした上で、金一両=銀六十匁=銭六貫文を前提に、金一両約十八万円、銀一匁約三千円、銭一文約三十円と試算しています。

 個人的には、多くの時代劇の世界では相場を金一両=銀六十匁=銭六貫五百文ほどとみて、金一両二、三十万円で換算してみると、収まりが良いように思います。

 

(参考)

江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―」(日本銀行金融研究所貨幣博物館

 

■中村主水の懐(ふところ)事情

 少々古いかもしれませんが、具体的な例として、必殺シリーズでお馴染みの中村主水の給料について考えてみます。

 江戸の町方同心の(役料を含まない)並高は三十俵二人扶持でした(親が当主で現役の増人同心の場合は二十俵二人扶持)。幕府の一俵は米三斗五升入でしたから、三十俵で米十石五斗になります。これをまずは春二月と夏五月に四分の一ずつ、冬十月に残りの半分を米一石=金一両ですべて現金化して受け取ったものとしましょう。総額で年に十両ニ分となります。

 

 次に、二人扶持の扶持米を毎月受け取ります。一人扶持は、月に米一斗五升(男扶持は一日五合)でしたから、二人扶持で月に米三斗となります。これを米一石=金一両=銭六貫五百文とみて、金額換算すると、月に金一分と銭三二五文となります。

 また、これとは別に組同心には拝領町屋敷がありました(当主である親と同居することが前提となる増人同心にはありません)。組与力の拝領地面はいうまでもなく武家地ですが、組同心のそれは本人の屋敷こそ武家地として扱われるものの、それ以外は町人地とみなされるため、百坪弱の地面に三十坪ほどの自宅を建て、残りの地面を貸家にして町人たちに賃し、家賃収入を得ることもできました。中には、与力の地面を借りて自宅を建て、じぶんの拝領地面はすべて貸家にしてしまう人も少なくありませんでした。棟割長屋を建てる人もあったようで、スラム化して「貧乏小路」などと呼ばれた一帯もありました。

 

■参考サイト

江戸雑記録

 

鎌倉殿の13人:侍所別当・和田義盛 編

 

 遂に父を乗り越え、新たな執権となった北条義時の前に、武士の国を創ろうと誓いあった友・和田義盛が立ちはだかる。二人の共通の友・三浦義村はその時、どう動くのか。

 

■第ニ部(第二十五~四十八回)) ※7~12月ごろ

 第ニ部では、鎌倉殿(頼朝)の亡き後、主人公の義時が武都鎌倉における有力御家人間の相克を制し、覇権を握るまでを描く。

 

 第四章 侍所別当・和田義盛(第四十一~四十四回) ※11月ごろ

  執権であり、父でもある時政越えを果たした義時は尼御台(政子)の後押しの下、次第に鎌倉の覇権を掌握しつつあった。しかし、御家人を統括する侍所別当の和田義盛は義時の変化を敏感に感じ取り、反発心を抱くようになっていった。

 

  第四十一回 猶子

   建永元年(1206)六月、頼家の遺児・善哉(公暁)が尼御台(政子)の邸で着袴の儀式を行った。それを見守っていた鎌倉殿(実朝)は善哉を猶子にする。

   承元三年(1209)五月、侍所別当の和田義盛は上総の国司任官を望むが幕府はそれを許さない。同月、臨時除目で鎌倉殿は右近衛中将に任じられる。


  第四十二回 位打ち

   建暦元年(1211)正月、鎌倉殿は正三位に叙される。同年十月、鴨長明が鎌倉に下向し、鎌倉殿に謁見した。

   翌二年六月、鎌倉殿が和田邸を訪れると、義盛は和漢の名将の画像を鎌倉殿に献上する。同年十二月、鎌倉殿は従二位に叙された。

 

  第四十三回 叛乱

   翌三年二月、信濃国の御家人・泉親衡が頼家の遺児・千寿を奉じて、乱を企てていると、千葉介成胤が義時に訴えた。乱には、和田義盛の二人の息子と、甥の胤長も加わっているという。そんな折、鎌倉殿は正二位に叙されるのであった。

   翌三月、義盛は胤長らの赦免のため、奔走する。

 

  第四十四回 和田合戦

   建暦三年(1213)五月二日、侍所別当としての面目を潰され、憤る和田義盛は義時を討つ決意をする。鎌倉殿は懸命に慰撫するが、義盛の決意は固かった。

   しかし、義盛の挙兵を見越していた義時は鎌倉殿を擁して、鎌倉に兵力を集結させていた。さらに、義盛の従兄弟・三浦義村も土壇場で義時方に寝返るのだった。

 

 

 【配役】

   〇北条家の人々  主人公・義時との関係

   北条義時(51):小栗旬さん (本人)

   北条泰時(31):●  嫡男

   北条時房(39):●  実弟

 

   ○鎌倉殿とその家族

   北条政子(57):小池栄子さん

   源実朝(22):●

   公暁(14):●

   千寿丸(13):●

 

   〇三浦党の人々

   三浦義村(-):山本耕史さん

   三浦泰村(-):●

   三浦胤義(-):●

   和田義盛(67):横田栄司さん

   和田常盛(42):●

   朝比奈義秀(38):●

   和田胤長(31):●

 

  〇御家人たち

   大江広元(66):栗原英雄さん

   三善康信(74):小林隆さん

   安達景盛(-):●

   小山朝政(-):●

   八田知家(-):●

   山内首藤経俊(77):山口馬木也さん

   千葉成胤(-):●

   泉親衡(-):●

 

  ○京都の人びと

   後鳥羽上皇(34);●

   土御門上皇(19):●

   順徳天皇(17):●

   慈円(59):●

 

   藤原秀康(-):●

   後藤基清(-):●

   山田重忠(-):●

 

  ※()内は和田合戦(建暦三年)時の年齢

  ※●印はキャスト未定