鳴滝にある瞕子内親王墓です。

 

 

瞕子内親王が創建した蓮華心院の跡地に当たります。

承安4年(1174年)、瞕子内親王(八条院/鳥羽天皇第四皇女)が、この地にあった常盤御所を寺に改め、仁和寺塔頭・蓮華心院を創建。落成供養には異母兄の後白河法皇も参列、導師は仁和寺6世・守覚法親王が勤めました。建暦元年(1211年)、蓮華心院で没。蓮華心院に葬られ、宝塔が建てられました。

その後、蓮華心院は廃絶。宝塔も現存しません。蓮華心院跡に瞕子内親王墓のみが残ります。

 

 

「鳥羽天皇皇女 瞕子内親王墓」

宮内庁設置の看板。

 

 

瞕子内親王(八条院/1137~1211)は平安時代末期~鎌倉時代の女院。鳥羽天皇の第四皇女。母は藤原得子(美福門院)。保延2年(1138年)、内親王宣下。保延6年、父鳥羽法皇の意向で安楽寿院領を含む荘園を相続、膨大な荘園領主となります。久安2年(1146年)、准三后。久寿2年(1155年)、同母弟の近衛天皇崩。鳥羽法皇は瞕子内親王が女帝として即位することを望んだといいます。保元元年(1156年)、父鳥羽法皇崩。保元2年、出家。法名、金剛性。保元3年、甥の二条天皇が即位。応保元年(1161年)、二条天皇の准母として院号宣下、八条院と号します。これにより所有する荘園群は八条女院領を呼ばれました。承安4年、常盤御所を改め蓮華心院を創建。以仁王(後白河天皇第三王子)の子・三条姫宮を養女とし、以仁王も猶子とします。治承4年(1180年)、以仁王が平家追討令である以仁王の令旨を発令すると、全国の八条院領荘官が配布に暗躍しました。建久6年(1196年)、昇子内親王(後鳥羽天皇第一皇女)が猶子となります。建久7年(1197年)、病となり、すべての財産を三条姫宮に相続させると遺言しますが、昇子内親王の外祖父・関白九条兼実が異を唱え、三条姫宮の後は昇子内親王の相続となるよう図ります。その後、八条院の病は癒え、三条姫宮が先に没しました。建暦元年、蓮華心院において75歳で死去。

 

 

 

瞕子内親王墓;京都市右京区鳴滝中道町