宇多野にある後田邑陵です。

 

 

円丘。

仁和3年(887年)に崩じた光孝天皇は、山城国葛野郡田邑郷立屋里小松原に葬られます。その後、陵墓の場所は分からなくなりました。

明治22年(1889年)、宮内庁により天王塚と呼ばれていたこの古墳が光孝天皇陵に比定されました。

 

 

「光孝天皇 後田邑陵」

宮内庁設置の看板。

 

 

光孝天皇(830~887)は第58代天皇。仁明天皇の第三皇子。母は藤原沢子。諱は時康。承和10年(843年)、親王宣下。元慶6年(883年)、一品。天慶8年、藤原基経は乱暴の噂があった16歳の甥・陽成天皇を廃すと、陽成天皇の大叔父に当たる時康親王を擁立、55歳で即位。思いがけず帝位に就いた光孝天皇は、皇嗣のことは基経に委ねるとして所生の皇子女でいまだ皇籍にあった者をすべて臣籍降下させ源氏とし、基経に万機を委ねるとして史上初の関白に任じました。仁和2年(886年)、西山御願寺の建造開始(後の仁和寺)。仁和3年、光孝天皇が病となると、基経は光孝天皇の第七王子源定省を皇籍復帰させ皇太子とし、光孝天皇は喜んだと言います。同9月17日、58歳で崩。

 

 

 

後田邑陵;京都市右京区宇多野馬場町