朱山にある円教寺陵です。

 

 

円丘。

平安時代、一帯は仁和寺の境内であり、円融天皇が仁和寺塔頭・円融寺、一条天皇が仁和寺塔頭・円教寺、後朱雀天皇が仁和寺塔頭・円乗寺を創建します。寛徳2年(1045年)、後冷泉天皇が崩じると、骨壺は円教寺に置かれました。その後、後三条天皇が円宗寺を創建、いずれも円の字がつくことから四円寺と呼ばれます。平安時代末期、四円寺は衰退、廃絶。陵墓の場所も分からなくなりました。

幕末、尊王思想の高まりにより江戸幕府が陵墓の比定と修復を行った文久の修陵で、朱山麓3古墳のうち中央の古墳が後冷泉天皇陵に比定されます。朱山七陵の一つ。

円教寺は仁和寺の東南、円乗寺の東隣にあったとされ、昭和61年(1986年)の発掘調査で柱穴などを確認しています。実際の円教寺があった場所とは異なっており、こちらは古墳時代の群集墳の可能性があるそうです。

 

 

「後冷泉天皇 圓教寺陵」

宮内庁設置の看板。

後朱雀天皇 円乗寺陵後三条天皇 円宗寺陵と同一域にあります。

 

 

後冷泉天皇(1025~1068)は第70代天皇。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原嬉子。諱は親仁。万寿2年(1025年)8月3日、父の東宮時代に誕生、生後2日で母嬉子死去。長元9年(1036年)、父後朱雀天皇即位、親王宣下。長暦元年(1037年)、元服。立太子。寛徳2年(1045年)、父の譲位を受け、21歳で即位。伯父の藤原頼通を関白とします。後一条天皇の第一皇女・章子内親王を中宮、関白頼通の成人した唯一の娘である藤原寛子を皇后、頼通の弟の左大臣藤原教通の三女藤原歓子を女御としますが、どの藤原氏系の妃たちからも皇子は誕生しませんでした(女房との間に一男を儲けるも高階為家の養子とする)。寛徳2年(1045年)、前任国司が立てた国免荘を廃止する寛徳の荘園整理令発令。治暦4年(1068年)4月16日、77歳の頼通は関白を辞し子の師実に譲ろうとするも、上東門院藤原彰子の命により73歳の教通が関白となります。同年4月17日、教通は歓子を立后させ皇后とし、後冷泉天皇の后は皇太后章子内親王、皇后藤原歓子、中宮藤原寛子の一帝三后となりました(一帝三后は後冷泉天皇が唯一)。同19日、在位のまま44歳で崩。

 

 

 

円教寺陵;京都市右京区龍安寺朱山