横浜にある称名寺です。

 

 

金沢山彌勒院称名寺という真言律宗の寺。

この地は畠山重忠の所領でしたが、元久元年(1204年)、重忠が北条氏によって滅ぼされると、北条義時の所領となります。元仁元年(1224年)、義時没、鎌倉幕府3代執権・北条泰時が遺領を分配。泰時の異母弟で義時五男の北条実泰にはこの地を含む武蔵国六浦荘が与えられました。

正嘉2年(1258年)、実泰の子北条実時は六浦の居館内に持仏堂を建立。文永4年(1267年)、審海を開山として持仏堂を寺に改め、この寺を創建。また、六浦居館に金沢文庫を創設。子顕時、孫貞顕も伽藍の整備や金沢文庫の拡充を行います。

鎌倉幕府滅亡後は衰退し、金沢文庫の書籍も散逸。徳川家康が蔵書の多くを江戸城内の紅葉谷文庫に移しました。昭和5年(1930年)、神奈川県立金沢文庫創設。昭和29年、神奈川県立図書館完成により博物館に変更。昭和62年、浄土式庭園復元。平成2年(1990年)、県立金沢文庫が称名寺西隣に移転、称名寺に伝わる国宝・重要文化財の文化財の多くはここに移管されています。

国の史跡。

 

 

仁王門。

 

 

金堂。

本尊・弥勒菩薩像を安置します。

 

 

釈迦堂。

 

 

反橋。

 

 

平橋。

 

 

北条実時像。

北条実時(1224~1276)は北条実泰(北条義時五男)の子。母は天野政景女。天福元年(1233年)、元服。天福2年、父実泰が自分で腹に刀を突き刺す事件を起こし出家したため家督相続。建長4年(1252年)、引付衆。建長5年、評定衆。建長7年、越後守。文永4年、六浦居館の持仏堂を寺に改め称名寺創建。建治元年(1275年)、六浦に隠居。六浦居館に文書を集めて金沢文庫創設。建治2年、死去。

 

 

北条顕時墓。

北条顕時(1248~1301)は北条(金沢)実時の子。母は北条政村女。正嘉元年(1257年)、元服。文永2年(1265年)、伊勢守護。文永6年、引付衆。弘安元年(1278年)、評定衆。弘安3年、越後守。弘安8年、鎌倉幕府9代執権北条貞時が内管領・平頼綱とともに安達泰盛を滅ぼした霜月騒動が勃発。顕時の正室安達千代能は泰盛女であり、顕時は娘婿に当たることから連座を恐れ出家。永仁元年(1293年)、執権貞時が平禅門の乱で平頼綱を討ち、顕時は幕政復帰が許されます。正安3年(1301年)、死去。

 

 

北条貞顕墓。

北条貞顕(1278~1333)は鎌倉幕府15代執権。北条(金沢)顕時の子。母は遠藤為俊女。正安3年、父顕時没。鎌倉幕府10代執権・北条貞時の命により兄たちを飛び越え家督相続。正安4年、六波羅探題南方となり上洛。嘉元3年(1304年)、北条宗方らが執権貞時の命として連署北条時村の邸を襲い殺害した嘉元の乱が勃発。貞顕の正室は時村女であったため連座を恐れるも、貞時が宗方の謀反であるとして宗方を討ったため事なきを得ます。延慶元年(1308年)、六波羅探題南方を辞し、延慶2年、鎌倉へ帰還。同年、寄合衆。延慶3年、六波羅探題北方となり上洛。応長元年(1311年)、武蔵守。正和3年(1314年)、六波羅探題北方を辞し、鎌倉へ帰還。正和4年、連署。正中3年(1326年)、鎌倉幕府14代執権・北条高時が出家隠居。後任の執権に内管領長崎氏は高時の子邦時を、高時の外戚安達氏は高時の同母弟泰家を推し対立。同3月16日、邦時幼少のため長崎高資は貞顕を擁立、執権就任。これに反対した泰家は出家。貞顕暗殺の噂が流れたため貞顕は執権を10日で辞任(嘉暦の騒動)。北条(赤橋)守時が16代執権となります。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の討幕に呼応した新田義貞が鎌倉を攻撃。貞顕の子貞将や孫忠時らは幕府軍として巨福呂坂を防衛するも討死。得宗北条高時が北条得宗家菩提寺・東勝寺へ移ると貞顕も同行。東勝寺において北条高時らとともに自刃。

 

 

中世の隧道。

この先は文庫ヶ谷という地名が残っており、鎌倉時代の金沢文庫があった場所だとされています。

現在は通り抜け不可。

 

 

 

称名寺;神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1