鎌倉にある延福寺跡です。

 

 

足利高義創建の延福寺があった跡地。

足利高義(1297~1317)は鎌倉幕府御家人。足利貞氏の長男。後に室町幕府初代将軍となる足利尊氏の異母兄。高義の母・釈迦堂殿(北条顕時女)は貞氏の正室であり、嫡男であったとみられます。この寺は高義によって亡き母のために創建されました。父貞氏は執権北条貞時の出家に従い出家。家督を譲られますが、文保元年(1317年)、父に先んじて21歳で没。父貞氏に家督が戻され、以降、貞氏の側室上杉清子を母とする異母弟高氏(建武の新政後尊氏と改名)が後継となりました。

延福寺跡やぐらに残る墓は足利一門のものとされ、延福寺に幽閉後亡くなった足利直義墓と伝わる五輪塔もあります。

浄妙寺境内となっており、拝観には浄妙寺の拝観料が必要です。

 

 

足利直義墓。

足利直義(1307~1352)は室町時代の武将。足利貞氏の三男。母は上杉清子。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。正慶2年(1333年)、後醍醐天皇に呼応した兄高氏(尊氏)の六波羅探題攻めに参加。同年、鎌倉幕府滅亡。建武元年(1334年)、建武の新政で鎌倉将軍府将軍となった成良親王を奉じて鎌倉下向。同年、尊氏と対立した護良親王が鎌倉へ送られると東光寺土牢に幽閉。建武2年、北条高時の遺児・時行による中先代の乱勃発により成良親王を奉じて帰京、護良親王を殺害。中先代の乱鎮圧に向かう兄尊氏と合流した直義は後醍醐天皇からの離反を勧めます。建武3年、尊氏は都に攻め上って北朝・光明天皇を立て、征夷大将軍に任じられて室町幕府を開きます。初期室町幕府では尊氏が軍事面、直義は政治面を担当して二頭政治を行います。後醍醐天皇は花山院に幽閉されるも脱出して吉野へ逃れ南朝を開きました。貞和4年(1348年)、直義と尊氏の執事・高師直の対立を発端とする観応の擾乱が勃発。貞和5年、師直は軍勢を率いて都の直義邸を取り囲み、罷免を要求。直義は出家隠居、尊氏の嫡男義詮に政務と都の邸宅を譲り渡します。観応元年(1350年)、直義は南朝・後村上天皇から尊氏追討の勅を受けて尊氏方を破り、師直は直義に引き渡され処刑されます。直義は義詮の補佐役として政に復帰するも、義詮に全権を譲りたい尊氏は直義を討つべく兵を整えます。事態を察知した直義は鎌倉へ下り、尊氏はこれを追って軍を率いて鎌倉へ向かいます。正平7年(1352年)正月5日、延福寺幽閉。同2月26日、延福寺において急死。「太平記」では尊氏による毒殺であったとしています。

 

 

 

延福寺跡;神奈川県鎌倉市浄明寺