鎌倉にある明月院です。

 

 

福源山明月院といい、臨済宗建長寺派の寺。

かつてこの地には鎌倉幕府5代執権北条時頼が創建した最明寺がありました。時頼死後、最明寺は衰退。鎌倉幕府8代執権北条時宗が禅興寺として復興しました。

康暦元年(1379年)、付近に邸を構えた山内上杉家当主の関東管領上杉憲方が、密室守厳を開山としてこの寺を創建。当初は禅興寺の塔頭でした。

室町時代、鎌倉公方の補佐役である関東管領は、次第に室町幕府初代将軍足利尊氏の外戚上杉家の世襲となります。上杉家は山内、扇谷、犬懸、宅間などに分家。山内上杉家は上杉家嫡流で、上杉禅宗の乱で犬懸上杉家が失速して以降、関東管領を独占しました。山内上杉家は戦国時代、後北条との争いで衰退。関東管領上杉憲政は山内上杉家の家臣であった越後の戦国大名・長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れ、景虎を養子として上杉家家督と関東管領を譲渡。謙信の死をもって関東管領は終焉しました。

明治初期、禅興寺は廃絶。塔頭の明月院のみが残りました。境内に禅興寺前身の最明寺にあったという北条時頼墓があります。

 

 

方丈の丸窓。

 

 

庭園。

 

 

開山堂。

 

 

明月院やぐら。

山内上杉家のものといわれ、開基上杉憲方の墓と伝わる五輪塔があります。

上杉憲方(1335~1394)は室町時代の関東管領。上野、武蔵、伊豆、下野、安房の守護大名。父上杉憲顕は室町幕府初代将軍足利尊氏の従兄で、尊氏が四男足利基氏を鎌倉へ下し鎌倉公方とすると補佐役の初代関東管領に就任。この付近に邸を構えて山内上杉家を称しました。正平23年(1368年)、父憲顕死去。跡を継いだ兄能憲も永和4年(1578年)、死去。関東管領は兄憲春が、家督は憲方が継承。室町幕府3代将軍足利義満の補佐役・管領細川頼之の権限が大きくなったことから各地守護大名の反発を招き、反頼之派が結成されます。康暦元年(1579年)、将軍位に野心を抱く2代鎌倉公方足利氏満はこの機に乗じて都への出兵を決めますが、関東管領の憲春は無謀として氏満を諫め自害。氏満は尚も憲方を大将に命じ、出立させます。憲方は伊豆に留まって将軍義満と交渉、義満から兄憲春の後任として関東管領に任じられると鎌倉へ引き返し、氏満に関東管領就任を認めさせ反乱を断念させます。永徳2年(1582年)、小山氏の乱を鎮圧。上野、武蔵、伊豆、下野、安房守護となります。応永元年(1394年)、60歳で死去。

 

 

明月院にちなんだ兎の像。

こちらのケージでは兎が飼われています。

 

 

 

明月院;神奈川県鎌倉市山ノ内189