鎌倉にある最明寺跡です。

 

 

康元元年(1256年)、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が創建した最明寺跡地。

同11月22日、時頼は執権を辞し、同23日、最明寺において蘭渓道隆を戒師として出家。最明寺に住んで最明寺入道と呼ばれ、出家後も北条氏嫡流の得宗を称して政の実権を握り続けました。弘長3年(1263年)11月22日、時頼は最明寺において死去。

それから間もなく最明寺は廃絶。鎌倉幕府8代執権北条時宗が復興して禅興寺とします。禅興寺は明治初期に廃絶。禅興寺の塔頭であった明月院に北条時頼墓とされる宝篋印塔が残されています。

 

 

北条時頼墓と伝わる宝篋印塔。

北条時頼(1227~1263)は鎌倉幕府5代執権。得宗。北条時氏の次男。母は松下禅尼(安達景盛女)。寛喜2年(1230年)、父時氏死去。仁治3年(1242年)、祖父の鎌倉幕府3代執権・北条泰時が死去。同母兄北条経時が4代執権となります。寛元4年(1246年)、経時死去、20歳で5代執権に就任。この家督継承に異議を唱えた北条(名越)光時(北条義時の次男朝時の子)が前将軍藤原頼経を擁する動きがあり、頼経を都に送り返します(宮騒動)。宝治元年(1247年)、外祖父の安達景盛とともに三浦泰村を滅ぼします(宝治合戦)。建長元年(1249年)、訴訟の迅速化のため評定衆の下に引付衆を設置。建長4年、鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣を廃して都に送り返し、新たに後嵯峨天皇皇子・宗尊親王を貰い受けて6代将軍とします。康元元年、執権を辞し最明寺において出家。法号・覚了坊道崇。最明寺入道と呼ばれます。嫡男時宗幼少の為、義兄の北条長時(時頼の継室葛西殿の兄)が6代執権となります。時頼は北条氏嫡流として北条義時の号であった得宗を称し、政の実権を握り続け得宗専制政治を行いました。弘長3年、37歳で死去。

 

 

北条時頼廟。

北条時頼墓と同じく明月院内にあります。

 

 

 

北条時頼墓;神奈川県鎌倉市山ノ内