鎌倉にある太平寺跡です。

 

 

鎌倉時代、妙法尼が開いたと伝わります。室町時代、初代鎌倉公方足利基氏の正室・清渓尼(畠山家国女)が復興。4代鎌倉公方足利持氏の娘昌泰道安、初代古河公方足利成氏の娘昌全義天、初代小弓公方足利義明の娘青岳尼などが住職を勤め、室町幕府が定めた鎌倉尼五山第一位として高い格式を誇りました。

永享10年(1438年)、4代鎌倉公方足利持氏は、室町幕府6代将軍足利義教と対立し咎めた関東管領上杉憲忠を攻めるも、義教が送った援軍に敗れて自害、鎌倉公方終焉(永享の乱)。嘉吉元年(1441年)、義教が嘉吉の乱で殺害されると持氏の遺児成氏が鎌倉公方を称し、遺恨あった上杉憲忠を殺害。室町幕府8代将軍足利義政は、駿河守護今川範忠に命じて成氏を攻め、成氏は古河へ逃れて古河公方を称します。2代古河公方足利政氏は、3代古河公方足利高基と永正の乱で対立。鶴岡八幡宮若宮に入り出家していた高基の弟空然が還俗して足利義明となり、小弓城に入って小弓公方を称します。天文7年(1538年)、高基は北条氏綱と結んで義明を攻め、義明は里見義堯の支援を受けるも討死(第一次国府合戦)。幼少の義明の娘は義堯に保護され、このとき義堯の嫡男義弘が見初めたと言います。この娘は太平寺に入り出家、青岳尼となります。

弘治2年(1556年)、里見義弘は北条氏綱の支配下にあった鎌倉を攻め、太平寺を訪れて青岳尼と再会、自身の妻になるよう説得。青岳尼はこれに応じて佐貫城に移り、義弘の正室となりました。このとき太平寺本尊も持ち去られ、住職と本尊を失った太平寺は廃寺。後に太平寺本尊は青岳尼の妹旭山尼が住職をしていた東慶寺に返還されました。

 

 

 

太平寺跡;神奈川県鎌倉市西御門