鎌倉にある東慶寺です。

 

 

松岡山東慶総持禅寺という臨済宗円覚寺派の寺。

弘安8年(1285年)、覚山尼が開山となって創建。開基は鎌倉幕府9代執権北条貞時。当初は尼寺。室町幕府が定めた鎌倉尼五山第二位。

覚山尼(1252~1306)は鎌倉幕府8代執権北条時宗の正室。安達義景女。母は北条時房女。2歳の時に父が没し、21歳年上の異母兄安達泰盛の猶子として育ちます。弘長元年(1261年)、1歳年上の時宗と結婚。堀内殿と呼ばれます。文永8年(1271年)、貞時出産。弘安7年、時宗が病のため出家するとともに出家。法号、覚山志道大姉。同年、時宗が34歳で没し、貞時が13歳で9代執権に就任。貞時の外戚安達氏と内管領平頼綱の対立が激化。弘安8年、頼綱の意を入れた貞時は、覚山尼の兄で自身の伯父である安達泰盛らを攻め滅ぼし、安達一族郎党約500人が自害(霜月騒動)。このとき覚山尼は安達一門の女性たちの庇護に当たったと言います。同年、東慶寺を創建。徳治元年(1306年)、死去。

後醍醐天皇皇女・用堂尼が東慶寺5世となった際に尼門跡寺院となり、松ヶ岡御所の名があります。東慶寺17世・旭山尼は小弓公方足利義明の娘、東慶寺18世・瑞山尼は古河公方足利高基の娘、東慶寺19世・瓊山法清は足利頼純の娘。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣宗家が滅亡。豊臣秀頼の遺児国松と奈阿姫は捕らえられ、国松は六条河原で斬首。奈阿姫は出家を条件に助命、東慶寺20世・天秀尼となります。天秀尼は嫡母千姫(江戸幕府2代将軍徳川秀忠の長女)の猶子となったことから東慶寺は江戸幕府寺社奉行直轄となり、満徳寺とともに女人がこの寺に駆け込み2年過ぎれば夫と離縁できる縁切寺として明治6年まで存続しました。明治36年以降は男僧が住職となっています。

境内は撮影禁止。門の外からの外観のみです。

 

 

 

東慶寺;神奈川県鎌倉市山ノ内1367