荒神口通寺町東入るにある法成寺址碑です。

 

 

藤原道長が創建した法成寺跡に建つ碑。

長和5年(1016年)、藤原道長は外孫の後一条天皇を即位させ摂政となります。長和6年、道長は摂政と藤氏氏長者を長男頼通に譲り、寛仁3年(1019年)、出家。自邸の土御門第隣接地に御堂の建立を開始。寛仁4年2月、九体阿弥陀堂と薬師堂が完成。同3月、法会が行われ、無量寿院と名付けます。同12月、十斎堂が完成。治安元年(1021年)、道長の正室源倫子も出家、無量寿院の西北に西北院を創建。治安2年、金堂、五大堂が完成。落成供養には、娘の太皇太后藤原彰子、皇太后藤原妍子、中宮藤原威子の三后、孫の後一条天皇、東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)が参列。法成寺と号し、扁額は藤原行成が揮毫しました。摂関期最大の大寺であり、道長はこの寺により「御堂」と呼ばれました。万寿4年(1027年)8月、釈迦堂完成。同12月、危篤となった道長は法成寺阿弥陀堂に入り、九体の阿弥陀仏と繋いだ五色の糸を握って没します。

長元3年(1030年)、道長の長女・上東門院藤原彰子が法成寺の東北に寺を創建。東北院と号しました。

康平元年(1058年)、法成寺は全焼。藤原頼通が再建。代々藤原摂関家が伝領しましたが、たびたび兵火に遭い荒廃。鎌倉時代末期の法成寺の様子を記した吉田兼好の「徒然草」では、阿弥陀堂のみが残る様子が記されます。それから間もなく廃絶したと考えられています。

 

 

 

法成寺址碑;京都市上京区荒神口通寺町東入る荒神町