神楽岡にある東北院です。
雲水山東北院という時宗の寺。
平安時代中期、上東門院藤原彰子(一条天皇中宮/藤原道長長女)が創建した常行三昧堂を前身としているといいます。
万寿3年(1026年)正月19日、太皇太后藤原彰子は39歳で出家。同日、上東門院の院号を受けて女院となり、寺の建立を発願。里第である土御門第の東に常行三昧堂の建造を開始。長元3年(1030年)、落成。父藤原道長が創建した法成寺の東北にあったため、東北院と呼ばれます。
創建当初は天台宗で、阿弥陀如来像を本尊とする大寺でした。出家後の上東門院は東北院に住みます。上東門院に仕えた和泉式部が東北院内に庵を結び、手づから軒端の梅を植えたという伝承から、室町時代には世阿弥により謡曲「東北院」が作られています。
天喜6年(1058年)、火災により法成寺と共に焼失。東京極一条に再建。承安4年(1174年)にも焼失、同じ場所に再建されますが、応仁の乱で荒廃します。
永禄2年(1559年)、弥安という時宗の僧が残されていた弁財天像を本尊として再興。江戸時代初期、時宗の寺として復興。元禄5年(1692年)の焼失後、現在地に移転したといいます。
本堂。
本尊・弁財天尊を安置するため弁財天堂ともいいます。
彰子の父藤原道長の像も安置します。
軒端の梅。
和泉式部が東北院の一角に植えたと伝承される梅。
和泉式部(生没年不詳)は平安時代中期の歌人。大江昌致女。橘道貞と結婚し小式部内侍を儲けるも、和泉守になって任地へ下る夫に同行せず都に残り、為尊親王(冷泉天皇第三皇子)、敦道親王(冷泉天皇第四皇子)と不倫。夫とは離縁となり、敦道親王との恋愛を「和泉式部日記」に残しました。両親王と死別後、一条天皇の中宮藤原彰子に出仕。丹後守藤原保昌と再婚して夫の任国・丹後国にともに下りました。
晩年は不詳ですが、再婚した夫や先夫との娘に先立たれて尼となり、彰子の許しを得て東北院の小庵に住み、この梅を植えたと伝えられるそうです。ただし、当時と東北院の場所は異なっています。
東北院;京都市左京区浄土寺真如町83