丹波篠山にある八上城です。

 

 

室町時代、石見国人とされる波多野清秀が、多紀郡代に任じられて築城。

天文2年(1533年)、丹波守護代の八木城主・内藤国貞が丹後守護の細川晴国から離反独立。八上城主・波多野秀忠も自ら一族を郡代に任じ独立します。天文4年、晴国と対立する細川晴元が摂津守護・三好長慶の支援で優勢となると、天文9年、秀忠は長慶に娘を嫁がせます。天文17年、秀忠の子元秀が家督継承。同年、長慶は正室波多野氏を離縁、遊佐長教女を継室としたため、姉妹を離縁された元秀は長慶と対立。内藤国貞とその娘婿で長慶家臣の松永長頼(松永久秀弟)は、長慶の命で元秀を攻めます。元秀は香西元成や三好政勝の支援を受け勝利、国貞討死。松永長頼が八木城に入り内藤宗勝と名乗ります。永禄2年(1559年)、長慶は元秀を攻め八上城を奪うと、家臣の松永孫六(松永久秀甥)を八上城主とします。永禄7年、三好長慶死去。永禄8年、内藤宗勝が黒井城主・赤井直正に敗れ討死。永禄9年、元秀は八上城を奪還。元秀の子秀治は、永禄11年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に臣従。天正3年(1575年)、信長家臣明智光秀が丹波に侵攻し赤井直正を攻めると、秀治は直正に通じて光秀を背後から攻め、挟み撃ちとなった光秀は敗走。天正6年、直正病死。光秀が再び丹波侵攻、秀治の立て籠もる八上城に兵糧攻めを行います。天正7年、味方の裏切りにより秀治は捕らえられ、安土城の織田信長のもとへ送られ処刑されました。

信長より丹波一国を受けた明智光秀は亀山城を拠点とし、八上城に娘婿の明智光忠を置きます。本能寺の変で光忠は光秀に従い、光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れると、明智秀満らとともに光秀の主城坂本城で自害したといいます。

慶長7年(1602年)、前田茂勝が八上藩を立藩して八上城に入城。慶長13年、茂勝が改易されたため、三河松井氏の松平康重が入城。慶長14年、康重は平城の篠山城を築いて移り、八上城は廃城となりました。

 

 

八上城跡を示す碑。

 

 

 

八上城;兵庫県丹波篠山市