南丹にあるジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地顕彰碑です。

 

 

最後の八木城主・内藤如安の顕彰碑。

内藤如安(1550?~1626)は戦国時代のキリシタン大名。松永頼長(内藤宗勝/松永久秀弟)の次男。母は内藤国貞女。諱は忠俊。洗礼名、如安(ジョアン)。天文22年(1553年)、外祖父の八木城主内藤国貞、及びその嫡男永貞が討死。兄千勝が内藤家家督を継ぐも幼少のため、父松永頼長が後見。永禄元年(1558年)頃、千勝は元服して貞勝となるも、永禄5年、早世。如安幼少のため、父頼長が内藤家家督を継ぎ内藤宗勝と称します。永禄7年、キリスト教に入信。永禄8年、宗勝が黒井城主・赤井直正との戦いで討死。如安が家督を継ぎます。永禄11年、織田信長に奉じられて上洛した足利義昭が室町幕府15代将軍となると、永禄12年、信長に臣従。ルイス・フロイスとその弟子で日本人宣教師のロレンソ了斎を八木城に招き、布教を奨励。天正元年(1573年)、信長が義昭を追放したため離反。信長は家臣明智光秀に丹波征討を命じます。天正3年、光秀は赤井直正を攻めるも八上城主・波多野秀治の裏切りにあって敗北。天正6年、直正が病死すると光秀は再び丹波侵攻。天正7年、光秀の八木城攻め(八木城の戦い)で敗れ、戦国大名としての内藤家は領地を失い滅亡。如安は毛利の庇護下にいた足利義昭に参じた後、小西行長家臣となります。慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いで小西行長は西軍につき、徳川家康の命により斬首。如安は浪人となり、加藤清正、次いで前田利長の客将となります。慶長18年、家康がキリシタン追放令を発布、慶長19年、如安は妹のジュリアや高山右近らとともにフィリピンのマニラに追放されます。現地で日本人キリシタンの町サンミゲルを築き、寛永3年(1626年)、マニラで死去。
 

 

 

ジョアン内藤飛騨守忠俊ゆかり之地顕彰碑;京都府南丹市本郷