鎌倉にある報国寺です。

 

 

功臣山報国建忠禅寺という臨済宗建長寺派の寺。

建武元年(1334年)、上杉重兼が天岸慧広を開山として創建。すでに亡くなっていた足利家時を開基とし、足利氏と上杉氏にゆかりの寺院となっています。

鎌倉時代中期、藤原北家勧修寺流の公家・上杉重房は鎌倉へ下向。足利泰氏に仕え、娘を泰氏の嫡子頼氏の側室とします。重房の子重頼もまた娘の清子を頼氏の子貞氏の側室としました。清子が産んだ足利尊氏が室町幕府を開いたため、上杉家は将軍の外戚として躍進。尊氏の四男基氏が鎌倉公方として鎌倉へ下ると、上杉憲顕(尊氏の従兄)が補佐役の関東管領に就任します。当初、関東管領は足利一門の斯波氏や畠山氏も任命されていましたが、次第に上杉氏による単独世襲となりました。

室町幕府5代将軍足利義量が早世、その父前将軍足利義持も没すると、4代鎌倉公方足利持氏は将軍就任を望みます。義持の弟で青蓮院に入り出家していた義円が還俗して室町幕府6代将軍足利義教となったため、持氏は反発。義教の上洛命令を無視、永享10年(1438年)、嫡男を鶴岡八幡宮で元服させると、将軍から扁諱を受けることなく義久と命名。これを諫めた関東管領・上杉憲実が領地へ帰ると、持氏は憲実が謀反を起こしたとして攻めます。将軍義教は憲実に援軍を送り、持氏は敗北。持氏は憲実を通じて義教に自身の助命と嫡男義久の鎌倉公方就任を願い出ますが、許されず永安寺で切腹。義久も報国寺で切腹。鎌倉公方終焉の地となっています(永享の乱)。

竹の寺として有名で、竹寺の別名があります。

 

 

 

本堂。

本尊・釈迦三尊像を安置します。

 

 

 

釈迦堂。

 

  

 

竹の庭。

 

      

報国寺やぐら。

海と山に囲まれ平地が少なかった鎌倉では、岩山の斜面を削ったやぐらと呼ばれる横穴に武家層の墓が造られました。こちらは足利一門のものであると考えられていますが、どれが誰の墓であるかは不明。

 

 

 

報国寺;神奈川県鎌倉市浄明寺2-7-4