鎌倉にある鶴岡八幡宮です。

 

 

源頼朝創建の社。

頼朝の曾祖父源頼義が創建した鶴岡若宮を前身とします。長元元年(1028年)、安房国で起こった平忠常の乱を鎮圧した源頼義は、鎌倉を拠点とする平直方の娘婿となり鎌倉の居館を伝領。永承6年(1051年)、陸奥の土豪安倍頼時が陸奥守藤原登任を討った前九年の役が勃発。登任は陸奥守を更迭、朝廷は頼義を陸奥守に任じ安倍氏鎮圧を命じます。頼義は石清水八幡宮で戦勝祈願を行い出陣。康平6年(1063年)、12年に及ぶ前九年の役を平定し都へ戻る途中の頼義は鎌倉の居館に立ち寄り、由比郷鶴岡(由比若宮の場所)に石清水八幡宮を勧請して鶴岡若宮を創建しました。

平治元年(1159年)、頼義の曽孫源義朝は平治の乱に敗れ、鎌倉へ逃げる途上尾張で殺害され、義朝の三男頼朝は伊豆配流となります。治承4年(1180年)、頼朝は伊豆で挙兵、石橋山の戦いで敗走するも安房で兵を立て直し鎌倉入り。鎌倉居館は扇ヶ谷にあり不便であったため大倉御所に居館を移すとともに、小林郷北山に鶴岡若宮を移し鎌倉の都市計画の中心としました。

建久2年(1191年)、小町大路から出火、類焼により社殿焼失。同年、頼朝は改めて石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建するとともに、社殿を高台の大臣山上に移して本宮(上宮)とし、元の場所は若宮(下宮)とします。幕末までは神仏習合により鶴岡八幡宮寺という社寺であり、鶴岡二十五房と呼ばれる僧房があり社僧たちが取り仕切りました。健保7年(1219年)、右大臣就任報告のため鶴岡八幡宮を参拝した鎌倉幕府3代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮別当であった甥の公暁(鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男)に鶴岡八幡宮石段において殺害されています。

鎌倉幕府滅亡後、25あった僧房は7坊まで減少。慶応4年(1868年)の神仏分離令により僧房は廃止となり、仏教関連施設は取り壊されました。

 

 

若宮大路。

鶴岡八幡宮の参道は周囲より一段高くなっており、段葛と呼ばれます。

寿永元年(1182年)、源頼朝は鶴岡若宮から由比ヶ浜まで続く参道を造ります。海に近い鎌倉では海水が流れ込むことが多かったため、土を盛って周囲より高い場所に参道を通したそうです。

 

 

太鼓橋。

鎌倉時代には赤く塗られていたことから赤橋と呼ばれました。北条氏庶流の赤橋家は付近に邸があったことからこの名で呼ばれたと言います。現在は通行禁止。

 

 

 

下拝殿。

拝殿が石段の下にあるためこの名があります。

舞殿とも呼ばれ、毎年4月に行われる鎌倉まつりでは静の舞が行われます。頼朝に追われる身となった源義経の行方を尋ねるため、義経の愛妾静御前が鎌倉に呼ばれます。都の白拍子であった静は頼朝から舞を披露するよう請われ、鶴岡若宮の廻廊で義経を思慕する今様を謡いあげて舞います。鶴岡八幡宮本宮が大臣山上に創建される以前のことで、静が舞った鶴岡若宮の廻廊がこの付近にあったということです。

 

  

楼門。

これより奥は撮影禁止。この奥に重要文化財の本殿があります。

祭神は、応神天皇、比売神、神功皇后。

 

 

 

鶴岡八幡宮;神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-13