鎌倉にある明王院です。

 

 

飯盛山寛喜寺明王院という真言宗泉涌寺派の寺。

嘉禎元年(1235年)、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経によって、鶴岡八幡宮別当・定豪を開山として創建されました。

藤原頼経(1218~1256)は鎌倉幕府4代将軍。関白九条道家の三男。母は西園寺掄子。母方曾祖母は源頼朝の同母妹坊門姫。幼名、三寅。建保6年(1218年)、北条政子は上洛して後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に掛け合い、子のない鎌倉幕府3代将軍・源実朝の後継として、後鳥羽上皇皇子・頼仁親王を鎌倉へ下す内諾を得るも、建保7年、実朝が鶴岡八幡宮において甥の公暁に殺害されると後鳥羽上皇の反対により断念。同年、3歳の三寅が鎌倉に迎えられ、2代執権北条義時が自邸大倉邸に新造した南御所で育ちます。承久元年(1219年)、源氏3代将軍の御所で北条政子が暮らす大倉御所が焼失。政子も大倉亭南御所に移り、ここで没します。嘉禄元年(1225年)、3代執権北条泰時は自邸の小町亭傍に宇都宮辻子御所を新造、三寅を迎え取り9歳で元服。嘉禄2年、征夷大将軍。寛喜2年(1230年)、2代将軍源頼家の長女で16歳年上の竹御所と結婚。天福2年(1234年)、竹御所死去。嘉禎2年(1236年)、若宮大路御所に移転。仁治3年(1242年)、執権泰時没。その孫経時が20歳で4代執権となると年上の将軍が疎ましかったためか、寛元2年(1444年)、頼経は27歳で隠居させられ6歳の長男頼嗣が5代将軍となります。寛元4年、経時死去。その弟時頼が5代執権となります。頼経は大御所となってからも権力保持、北条氏嫡流に返り咲こうとする名越光時(北条義時次男)、三浦光村(三浦義村四男)ら反時頼勢力に擁されます。寛元4年、反時頼勢力が調伏を行ったとして、光時は配流、頼経は都へ返されます(宮騒動)。頼経の父九条道家は関東申次を罷免、寛元5年、弟の一条実経も関白罷免。光村は三浦と北条の全面争いを避けるため不問とされるも、その後も頼経の鎌倉復帰を望み頼経が建立した明王院を大切にしたため、宝治元年(1247年)、執権北条時頼とその外祖父安達景盛らに三浦泰村、光村ら三浦一族が滅ぼされた宝治合戦の原因になったといいます。建長3年(1251年)、頼嗣も都に返され、後嵯峨天皇第一皇子・宗尊親王が6代将軍として新たに鎌倉下向。康元元年(1256年)、都で死去。

明王院は境内撮影禁止。門外の画像になります。

 

 

 

明王院;神奈川県鎌倉市十二所3