花園にある慈雲院です。

 

 

妙心寺の塔頭。東海派。

承応2年(1653年)、大坂の商人・橘屋新兵衛が妙心寺194世・湛月紹円を開山として創建。もとは慈雲庵といいました。

明治11年(1878年)、妙心寺塔頭・松濤庵と合併。同年、妙心寺塔頭・盛岳院(龍泉庵と合併)跡地である現在地に移転。盛岳院は、文禄2年(1593年)、池田輝政が妙心寺88世・宙外玄杲を開山として創建した寺。盛岳院にあった養徳院墓、池田恒興墓がそのまま旧地に残され、現在は慈雲院の管理となっています。

通常非公開。

 

 

境内。

池田恒興(1536-1584)は戦国時代の武将。池田恒利の子。母の養徳院が織田信長の乳母であったことから信長に仕え、桶狭間の戦い、姉川の戦いなどに出陣、犬山城主となります。荒木村重との戦いである花隈城の戦いで功績によりその旧地を信長から拝領し、兵庫城を築城。本能寺の変で主君の織田信長が明智光秀に討たれると、中国大返しの羽柴秀吉軍に合流して山崎の戦いに参加。清須会議でも秀吉に味方。天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いに秀吉軍として参加。家康方の銃弾に遭い戦死。享年、49歳。

養徳院(1515-1608)は織田信長の乳母。池田政秀の子。滝川貞勝の子・恒利を婿取りして恒興を産みます。狂暴で乳母の成り手がなかった吉法師(後の織田信長)の乳母となるとよく懐き、「大御ち」として信長からの信頼は絶大であったと言います。天文7年(1538年)、夫の恒利が死去、出家。その後、信長の父である織田信秀の側室となり、一女(栄輪院/織田信直室)を産みます。天正12年、息子の池田恒興が小牧長久手の戦いで戦死。秀吉は恒興の子輝政を取り立てると同時に養徳院にも美濃に領地を与え、ここに隠居しました。慶長13年(1608年)、死去。享年、94歳。

 

 

 

慈雲院;京都市右京区花園妙心寺町1