花園にある大龍院です。
妙心寺の塔頭。霊雲派。
慶長11年(1606年)、米子藩初代藩主・中村忠一が妙心寺80世・鉄山宗純を開山として創建しました。
中村忠一(一忠/1590〜1609)は米子藩初代藩主。駿府城主・中村一氏の子。母は池田せん(池田恒興女)。慶長5年、関ケ原の戦い直前に父が没し、11歳の忠一が東軍として出陣。戦後は米子藩初代藩主となります。忠一幼少のため徳川家康の命で横田村詮(忠一の叔母婿)が附家老となり、村詮主導で米子城が築城されました。村詮を快く思わない家臣の安井清一郎、天野宗把らは忠一に讒言。慶長8年、忠一と浄明院(松平康元女/徳川家康養女)の婚礼のため登城した村詮を殺害しました。家康は自身が付けた附家老を殺したことに激怒、安井と天野を切腹させますが、養女婿である14歳の忠一は謹慎のみとしました。慶長14年、20歳で死去。側室が産んだ3人の男子は家督相続を許されず、大名としての中村家は断絶。正室の浄明院は毛利秀元と再婚しました。
当初は妙心寺北門外にありましたが、明治中期、妙心寺塔頭・大嶺院(管領・斯波義近が創建した衡陽院が始まり。明智光秀が密宗宗顕に中興させ大嶺院と改名)と合併、大嶺院跡地である現在地に移転しました。
通常非公開。
大龍院;京都市右京区花園妙心寺町40