祇園にある崇徳天皇御廟です。

 

 

崇徳天皇の廟所。

保元元年(1156年)、鳥羽上皇が崩じると、崇徳上皇は院政を主張して白河北殿に立て籠もります。しかし弟の後白河天皇に敗れ、讃岐国へ配流(保元の乱)。8年後の長寛2年(1164年)、崇徳上皇は配流先の讃岐国で48歳で崩じました。安元2年(1176年)、後白河法皇の寵妃・建春門院(平滋子)、異母妹・高松院(姝子内親王/二条天皇中宮)、関白藤原忠通の養女・九条院(藤原呈子/近衛天皇中宮)が相次いで亡くなり、崇徳上皇の怨霊であると恐れられます。元暦元年(1184年)、後白河法皇は崇徳上皇の怨霊鎮魂のため、白河北殿跡に崇徳上皇を祀る粟田宮を創建します。粟田宮は応仁の乱で荒廃、廃絶しました(粟田宮の遺仏とされる石仏が積善院準提堂に崇徳院地蔵として祀られています)。

明応6年(1497年)、光明院の僧・幸盛が、後土御門天皇の綸旨を受け境内に崇徳上皇の廟所を再興します。これが、こちらの崇徳天皇御廟になります。廃絶した粟田宮の後身とされますが諸説あるそうです。

元禄8年(1695年)、太秦にあった蓮華光院(安井門跡)がこの地に移転。光明院は蓮華光院の末寺となり後に廃絶、崇徳天皇御廟は蓮華光院が管理を行いました。明治初期の廃仏毀釈により、蓮華光院は廃寺となります。明治4年(1871年)、蓮華光院は大覚寺に吸収され、御影堂も大覚寺に移されました。跡地には蓮華光院の鎮守社であった安井金毘羅宮のみが残っています。

崇徳天皇御廟は慶応3年(1867年)、明治天皇が崇徳上皇の御霊を都に呼び戻して創建した白峯神宮の管轄となり、現在も白峯神宮が管理を行っています。

 

 

 

崇徳天皇御廟;京都市東山区安井北門上る万寿小路西側祇園町南側