聖護院にある積善院準提堂です。

 

 

聖護院の塔頭。

もともとは積善院と準提堂という聖護院の別々の塔頭でした。

積善院は鎌倉時代に創建され、聖護院配下の山伏たちを統括。椥の坊とも呼ばれました。当初は熊野神社の北西にありましたが、明治元年(1868年)、熊野神社の南東にあった江戸時代創建の準提堂と合併、大正3年(1914年)に現在地に移されました。

境内には崇徳院地蔵があります。

 

 

拝殿。

 

 

本堂。

元は準提堂の本堂であったもの。

現在は、本尊・準提観世音菩薩像(旧準提堂本尊)、不動明王像(旧積善院本尊。鎌倉時代・重要文化財)を安置します。

 

 

元積善院本堂。

現在は役行者像などを祀ります。

 

 

崇徳院地蔵。

もとは現在地よりも西北に野晒にされていましたが、京都大学付属病院が建てられるときに境内に移されました。人喰い地蔵と呼ばれていましたが、崇徳院地蔵が訛ったものとされ、崇徳上皇を祀った粟田宮の遺仏であると考えられています。

粟田宮は、かつて崇徳上皇の怨霊を鎮めるため後白河法皇によって創建された社。保元元年(1156年)、院政を主張して白河北殿に立て籠もった崇徳上皇は、弟の後白河天皇に敗れて讃岐国に流され(保元の乱)、長寛2年(1164年)、現地で没します。安元2年(1176年)、後白河法皇の寵妃・建春門院(平滋子)、後白河法皇の異母妹・高松院(姝子内親王/二条天皇中宮)、関白藤原忠通の養女・九条院(藤原呈子/近衛天皇中宮)が相次いで亡くなり、崇徳上皇の怨霊であると恐れられます。元暦元年(1184年)、後白河法皇は崇徳上皇の怨霊鎮魂のため、白河北殿跡に崇徳上皇を祀る粟田宮を創建。粟田宮は応仁の乱で焼失、廃絶しています。

 

 

お俊・伝兵衛恋情塚。

江戸時代の浄瑠璃「近頃河原達引」の主人公、お俊と伝兵衛の塚。

明治時代頃まで、付近は聖護院の森と呼ばれる深い森に覆われていました。井筒屋伝兵衛は祇園丹波屋の遊女・お俊と恋仲になるも、恋敵の横溝官左衛門を刺してしまい、お俊と聖護院の森で心中する悲恋もの。

昭和27年、歌舞伎役者らの寄進により建てられました。

 

 

 

積積院;京都市左京区聖護院中町14