蒲生にある雲雀野公園です。
馬見岡綿向神社の御旅所があり、毎年8月14、15日には火ふり祭りが行なわれます。日野ゆかりの戦国武将・蒲生氏郷の銅像があります。
蒲生氏郷(1556~1595)は戦国時代の大名。日野城主・蒲生賢秀の子。母は、側室・後藤りき。幼名・鶴千代。父賢秀は南近江の大名・六角義賢・義治に仕えていましたが、永禄11年(1568年)、義賢・義治は観音寺城の戦いで織田信長に敗れ、主城の観音寺城を捨て逃亡。賢秀は日野城に籠城、説得に応じて降伏。13歳の鶴千代を信長の人質に出します。鶴千代は同年、信長のもとで元服して賦秀と名乗り、永禄12年、信長次女(相応院)と結婚。同年、妻とともに日野城へ帰還。以降、信長家臣として、姉川の戦い、小谷城の戦い、長篠の戦い、有岡城の戦いなどに参戦。天正10年(1582年)、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀が信長の主城・安土城に迫り、安土城留守居役であった父賢秀とともに信長妻子を安土城から日野城へ避難させました。その後は山崎の戦いに勝利した羽柴秀吉に臣従。同年、家督を相続。天正12年、小牧長久手の戦いに参戦。秀吉より伊勢松ケ崎12万石を受け転封。天正13年、キリスト教の洗礼を受けます(洗礼名・レオン)。この頃、賦秀の名を改め氏郷とします。天正15年、九州征討に出陣。天正16年、松坂城を築城。天正18年、小田原城攻めに出陣。同年、秀吉より加増を受け、会津42万石に転封。鶴ヶ城を築城。文禄元年(1592年)、文禄の役に出陣するため名護屋城入りするも体調を崩し、文禄2年、会津へ帰還。文禄3年、上洛。文禄4年、伏見・蒲生屋敷において没。享年、40歳。
雲雀野公園;滋賀県蒲生郡日野町上野田

