伏見にある伏見松林院陵です。

 

 

宇治川と巨椋池を見下ろす景勝地、伏見・指月丘は院御所の伏見殿が築かれました。指月丘上に築かれた伏見殿上屋敷に対して下屋敷があった場所といわれ、南側の柿木浜に宇治川の船着き場があったことから御舟御所と呼ばれたと言います。伏見殿は崇光天皇の皇子・栄仁親王から伏見宮家に伝領されます。後崇光太上天皇は伏見宮家3代・貞成親王。子が後花園天皇となったことから、後崇光院と贈号されました。

この地には方墳があり、幕末の「文久山陵図」では後深草天皇火葬塚とされていました。明治時代に宮内庁が陵墓比定を行った時も、後深草天皇火葬塚の参考地として伏見丹後陵墓参考地となりました。大正6年、後崇光院の陵墓に比定。陵名の松林院は、西隣にある寺の名からです。

 

 

「後崇光太上天皇 伏見松林院陵」。

宮内庁設置の看板。

 

 

松林院陵。

伏見宮貞成親王(後崇光院/1372~1456)は伏見宮3代。栄仁親王(崇光天皇第一皇子)の子。母は三条治子。今出川家で養育され、応永18年(1411年)、40歳の時に父に迎え取られて元服。応永23年11月20日、父没。同母兄・治仁王が伏見宮2代となるも3か月で死去。伏見宮3代となるも、兄を毒殺した嫌疑をかけられます。応永19年、後小松天皇譲位、称光天皇即位。応永25年、称光天皇は愛妾・新内侍(五辻朝子)の腹の子は貞成王の胤であると騒ぎ、生まれた皇女を認知しませんでした。応永32年2月、儲君・小川宮(称光天皇同母弟)が22歳で死去。同4月16日、後小松上皇の猶子となり、54歳で親王宣下。これを知った称光天皇は激怒。称光天皇の病は貞成親王の呪詛によるものという噂がたち、同閏6月3日、貞成親王は帝位への野心がないことを示すため出家。正長元年(1428年)、称光天皇が危篤となると、足利義宣(後の室町幕府6代将軍足利義教)が貞成親王の第一王子・彦仁王を庇護。同7月20日、称光天皇崩御後、彦仁王は後小松上皇の猶子として即位、後花園天皇となります。永享5年(1433年)、後小松上皇崩。文安4年(1447年)、後花園天皇は、高倉院(後鳥羽天皇父)を先例として、実父貞成親王に後崇光院の太上天皇号を贈ります。翌年、貞成親王は太上天皇号を辞退。康正2年(1456年)、85歳で死去。日記「看聞御記」は一級史料。

 

 

 

伏見松林院陵;京都市伏見区丹後町