伏見にある伏見奉行所跡です。

 

 

江戸時代、江戸幕府の遠国奉行の一つ、伏見奉行所が置かれた跡地。

伏見の地は安土桃山時代、太閤・豊臣秀吉の伏見城(指月伏見城/木幡山伏見城)が築かれ、政治の中心となります。秀吉の死後、徳川家康が伏見城へ入城。慶長5年(1600年)、伏見城の戦いで伏見城は焼失するも関ケ原で勝利した家康が再建、家康のお膝元となり、慶長6年、伏見奉行が置かれます。慶長8年、家康は伏見城において征夷大将軍就任。慶長10年、征夷大将軍を秀忠に譲り大御所となった家康は、慶長12年、駿府城へ移り、伏見藩が立藩。伏見藩初代藩主・松平定勝(家康の異父弟)が伏見城へ入城。元和3年(1617年)、定勝は転封となり、内藤信正が伏見藩2代藩主となります。元和5年、信正も転封となり、伏見は江戸幕府の天領(直轄地)となります。元和9年、徳川家光が伏見城で将軍宣下を受けた後、伏見城は廃城となり移築・破壊されました。

伏見が天領となった後は、京都所司代配下の伏見奉行所が置かれます。伏見奉行は主に大名から1名、その配下に与力と同心が配属されました。

伏見奉行所は当初、伏見城本丸南の清水谷にありましたが、寛永2年(1625年)、伏見奉行・小堀遠州によって伏見の街中に位置する現在地に移転。かつて伏見城下に集住していた諸大名は伏見城廃城により伏見屋敷を廃しており、この地は富田信高の伏見屋敷跡にあたると言います。作庭家でもあった小堀遠州は伏見奉行所の庭も作庭。寛永23年、上洛した3代将軍・徳川家光は伏見奉行所に立ち寄り、遠州に茶を所望。庭を眺めながら茶を楽しんだと言います。

幕末には尊王攘夷派の取り締まりのため伏見奉行所が活躍。慶応2年(1866年)1月23日の寺田屋事件では、伏見奉行所が伏見・寺田屋に潜伏中の土佐浪士・坂本龍馬の捕獲に向かっています。慶応3年6月24日、最後の伏見奉行である林忠交が死去、以降は伏見奉行は置かれず、同10月14日、大政奉還。同12月9日、王政復古の大号令。同12日、徳川慶喜と松平容保が大坂城へ退去。同16日、旧幕府より伏見鎮撫を命じられた会津藩士と新選組が伏見奉行所に入ります。慶喜は穏便な政権返上を図る一方、土佐藩などの主導により新政府に参与としての参加が内定するなど、徳川政権の体制温存が図られます。一方、徳川体制の解体を望む薩摩藩は、江戸で浪士隊(後の赤報隊)を雇って暴動を起こします。旧幕府軍配下の新徴組による薩摩藩焼き討ち事件を契機に、旧幕府方と薩摩の戦開始。慶応4年正月1日、徳川慶喜は大坂城において討薩表を発表。慶喜公上洛の先駆として、同2日、旧幕府軍約1万5000人が大坂城を出立。同日、淀城に宿泊した旧幕府軍は翌3日、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれて進軍。伏見街道を進む隊は伏見市街地に入ります。旧幕府軍の陸軍奉行・竹中重固が伏見奉行所に入り、ここを本営とします。伏見奉行所の北150メートルの場所にある御香宮神社には新政府軍の薩摩兵800人が駐屯、伏見市街地の北部に長州兵150人があり、一発即発となります。

同3日夕刻、鳥羽街道を進んでいた旧幕府軍が鳥羽小枝橋で薩摩に発砲されたことを機に、鳥羽伏見の戦いが勃発。伏見奉行所は会津の主力兵1500人が守備。新選組、伝習隊、歩兵隊などの幕府直轄兵は伏見市街地を筋ごとに南から北へ進軍。新政府軍は、本営を置く教王護国寺(東寺)より薩摩藩第二砲隊長・大山弥助率いる砲兵隊を御香宮神社に派遣。御香宮神社とその東にあった龍雲寺に砲台を設け、伏見奉行所に大砲を撃ち込みます。新選組は油小路事件の報復で肩に怪我をした局長・近藤勇が大坂に下ったため不在で、副長・土方歳三が引率。新選組は薩摩兵が陣取る御香宮神社の背後に周り込んで伏見奉行所の会津兵と挟み撃ちにしようとするも失敗。同日夕刻、薩摩兵の放つ大砲が伏見奉行所の武器庫に命中、伏見奉行所は全焼。激しい市街地戦へと突入。一時期、旧幕府軍の伝習隊は新政府軍を墨染まで追い上げます。同4日、旧幕府軍は淀へと退去しています。

 

 

伏見奉行所跡地は戊辰戦争後、伏見工兵第十六隊の駐屯地となります。戦後は米軍駐屯地となり、日本返却後、京都市営桃陵団地となっています。桃陵団地の一角に碑が建てられています。

 

 

 

伏見奉行所跡;京都市伏見区西奉行所町