今出川通烏丸東入にある相国寺です。
萬年山相国承天禅寺といい、臨済宗相国寺派大本山。
室町幕府3代将軍・足利義満は、居所の室町第(花の御所)傍に自身の禅修行の道場として禅寺の創建を発願。永徳2年(1382年)、室町第東隣の現在地に建立開始。寺名は義満が当時左大臣であったことから左大臣の唐名、左相国から取られました。義満は帰依する臨済宗の僧・春屋妙葩に開山を依頼するも、春屋妙葩は既に入滅していた師・無窓礎石を開山に据えることを希望した為、無窓礎石が開山、春屋妙葩は相国寺2世となりました。
室町幕府が定めた五山十刹の制で京都五山の第2位。応永5年(1398年)、足利義満は絶海中津を相国寺塔頭・鹿苑院主に任命するとともに僧禄に任じます。僧禄は禅宗寺院を統括、五山十刹の僧の任免や昇進降格を行う地位。以降、鹿苑院主が僧禄を兼任したため鹿苑僧禄と呼ばれ、元和元年(1615年)、徳川家康が鹿苑僧禄を廃止、元和5年、南禅寺塔頭・金地院主、以心崇伝に僧禄を与え金地僧禄とするまで続きました。応永8年、足利義満は相国寺を天龍寺と入れ替え京都五山第1位としますが、義満が没すると、応永17年、室町幕府4代将軍・足利義持によって順位は戻されました。
伽藍は完成から2年後の応永元年に全焼。相国寺3世・空谷明応が義満の寄進で再建。応永6年、七重大塔が完成(応永10年落雷により焼失。応永11年、北山第で再建されるも、応永23年落雷で焼失。元の場所に再建されるが文明2年焼失以降再建されず)。応永23年、火災により全焼。応仁元年(1467年)、応仁の乱勃発。東軍(細川勝元方) が室町第を押さえ隣接する相国寺に陣を張ります。同10月3日、西軍が相国寺へ攻め込み、西軍に内通した僧兵の放火により相国寺は焼失(相国寺合戦)。文明20年(1551年)、細川晴元が室町幕府13代将軍・足利義輝を擁して近江から上洛、京を占領していた三好長慶が相国寺に陣取ったため戦により焼失しました。
安土桃山時代、相国寺92世・西笑承兌は豊臣秀吉に支援を要請、復興。天明8年(1788年)、天明の大火で法堂・勅使門以外を全焼。境内地は縮小。幕末の廃仏毀釈で多くの塔頭が廃絶しました。
神仏巡礼巡拝の道99番(京都19番)札所。
鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)は相国寺の境外塔頭に当たります。
勅使門。
三門跡。
応仁の乱で焼失後、徳川家康寄進のものが建てられていましたが、天明の大火で焼失。以降、再建されることなく、基壇と礎石のみが残っています。
仏堂跡。
応仁の乱で焼失後、再建されることがなく、盛土のみが残っています。
法堂。
慶長10年(1605年)、豊臣秀頼の寄進によるもので、重要文化財。
現存する法堂としては日本最古。
僧侶が説法をするための建物で、天井には狩野光信が描いた龍の図があります。
相国寺の本堂を兼ねており、本尊・釈迦如来像を安置しています。
開山堂。
開山・夢窓礎石を祀る堂。
江戸時代の文化4年(1807年)、桃園天皇女御・恭礼門院(一条富子)の女院御所を下賜したもの。
庫裏。
江戸時代、文明4年(1807年)の建造物。
方丈庭園。
裏方丈庭園。
枯山水庭園ですが、川の流れに相当する部分が掘られており立体的になっています。
鐘楼。
江戸時代、天保14年(1843年)の建造物。
後水尾天皇歯髪塚。
承応2年(1653年)、後水尾上皇が三重塔を寄進。後水尾上皇が崩じると、遺髪と遺歯が三重塔の中に納められました。天明8年の天明の大火で三重塔は焼失。現在は、跡地に円墳が造られています。
経蔵。
江戸時代、万延元年(1860年)の建造物。
相国寺;京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701