修学院にある修学院離宮です。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋
 

林丘寺の旧境内地。

林丘寺は、江戸時代、照山元瑤(光子内親王)によって創建された臨済宗の寺。

江戸時代初期、明暦元年(1655年)から4年の歳月をかけて、後水尾上皇の離宮・修学院離宮が造営されます。このときの修学院離宮は上御茶屋下御茶屋から成るものでした。後水尾上皇は、修学院離宮に隣接する現在地に楽只軒と呼ばれる別殿を建て、鍾愛の皇女・光子内親王を住まわせます。

光子内親王(1634~1727)は後水尾天皇の第八皇女。母は典侍・櫛笥隆子(逢春門院)。幼名、朱宮。女官腹の未婚の皇女は内親王宣下を受けることなく尼寺に入れられるのが普通でしたが、朱宮は父後水尾上皇から鍾愛されて嫡母である東福門院(後水尾天皇中宮・徳川和子)の養女となり、寛永15年(1638年)、内親王宣下。延宝8年(1680年)、後水尾上皇が崩じると、出家して照山元瑶と号し、朱宮御所を尼寺に改めて臨済宗の尼寺・聖明山林丘寺を創建。林丘寺は音羽御所とも呼ばれ、皇女を門主に迎える尼門跡寺院となります。しかし、幕末には荒廃しました。

明治17年(1885年)、臨済宗の僧・由理滴水が林丘寺を再興し、このとき男僧の寺となります。明治18年、境内の維持の困難さから、林丘寺の寺地の半分を宮内省に返却。この返却部分が修学院離宮に組み込まれ、従来から修学院離宮にあった上御茶屋と下御茶屋の中間に位置することから中御茶屋と名付けられました。

林丘寺は昭和2年に再び尼が住職となり、以降は尼寺に戻っています。

現在、隣接する林丘寺は非公開。旧林丘寺境内地である中御茶屋は、修学院離宮の一部として拝観申し込み要で公開されています。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋
 

この地が林丘寺の一部であった頃に、林丘寺正門だった門。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

旧書院跡地。

林丘寺が寺地の半分を宮内省に返却する際、隣接する現林丘寺に書院を移築しました。旧地に傘松が植えられています。

古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

楽只軒。

寛文8年(1668年)、後水尾上皇が光子内親王のために旧朱宮御所として建てた建物。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋
 

楽只軒の内部。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

客殿。

延宝5年(1677年)、東福門院(徳川和子)の奥対面所として、女院御所(現在の大宮御所の場所)に建てられました。東福門院の没後、天和2年(1682年)、こちらに移築されたもの。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

客殿の内部。

 

古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

客殿にある霞棚。

棚の配置が霞がたなびくようであることからこの名があります。

天下の三棚の一つ。

天下の三棚のうち残る2つは桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚ですが、観光客が拝観できるのはここだけだそうです。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋
 

客殿の杉戸。

江戸時代の祇園祭山鉾巡行の様子が描かれています。

右が放下鉾、左が岩戸山だそうです。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

客殿の杉戸。

鯉の絵を描いた作者は不明ですが、網をかけたのは円山応挙とのこと。


古都の礎-修学院離宮 中御茶屋

 

キリシタン燈籠。

 

 

 

修学院離宮;京都市左京区修学院藪添1-3