大津にある義仲寺です。


古都の礎-義仲寺
 

朝日山義仲寺という天台宗系の単立寺院。

平安時代末期、朝日将軍と称した木曽義仲が近江国粟津で戦死。この地に義仲の塚が築かれたと言います。寺伝によれば、木曽義仲の愛妾・巴御前が義仲の死後出家して尼となり、義仲の塚の傍に無名庵という草庵を結んで、義仲を供養したのが始まりとしています。

その後、寺は荒廃。室町時代に南近江の守護大名六角氏が中興。この頃には石山寺の末寺であったといいます。江戸時代に入ると、園城寺円満院の末寺となりました。

江戸時代中期、木曽義仲に傾倒した俳人・松尾芭蕉がこの寺を訪れ度々滞在。芭蕉が大坂で没すると、遺言により義仲寺に葬られました。

昭和46年、円満院から独立。単立寺院となっています。


古都の礎-義仲寺

 

朝日堂。

本堂。

本尊、聖観音菩薩像を安置します。


古都の礎-義仲寺

 

翁堂。

古都の礎-義仲寺

 

翁堂の内部。

中央に松尾芭蕉の像が安置されています。

古都の礎-義仲寺

 

義仲塚。

木曽義仲の墓。

木曽義仲(1154~1184)は平安時代末期の武将。源義賢の次男。久寿2年(1155年)、父義賢が源義朝・義平親子に殺害され、義仲は乳父に匿われ信濃国木曽で育ちます。治承4年(1180年)、以仁王の令旨により挙兵。寿永2年(1183年)7月28日、平家を西国へ追って入京。同8月16日、伊予守。後白河法皇の院宣により鳥羽天皇が即位しますが、義仲は北陸宮(以仁王遺児)の即位を要請。皇位継承に口出ししたことで後白河法皇の反感を買います。同9月19日、義仲は平家追討のため西国へ下向。同10月9日、後白河法皇は伊豆の流人となっていた源頼朝(義朝三男)を赦免し上洛を命令。同閏10月9日、頼朝の異母弟源範頼・義経が上洛開始。備中でこの報に触れた義仲は激怒、都にとって返します。同11月19日、義仲は後白河法皇の院御所である法住寺を襲撃、後白河法皇を幽閉して院政を停止(法住寺合戦)。前関白松殿基房の娘伊子を正室に迎え、同22日、伊子の弟で12歳の松殿師家を摂政とする傀儡政権を打ち立てます。寿永3年1月15日、征東大将軍となり、朝日将軍と称します。同日、攻め上る源範頼・義経軍と宇治川や瀬田で合戦となりますが、敗北。義仲はわずかな兵と共に都を落ち、近江国粟津で討たれたと言います。享年31歳。

 

古都の礎-義仲寺

 

巴塚。

平安時代末期の女武将で、木曽義仲の愛妾と伝わる巴御前の墓。

巴御前は義仲の乳母子今井兼平の妹。義仲軍に従軍して戦い、最後の数騎になるまで義仲に従うも、木曽殿は最期に女を連れていたと笑われたくない、という義仲の説得で武装を解除し落ち延びたとされます。「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物にしか登場せず、架空人物だという説があります。

 

古都の礎-義仲寺

 

芭蕉翁塚。

江戸時代の俳人・松尾芭蕉の墓。
松尾芭蕉(1644~1694)は伊賀国の豪農の出身。北村季吟に弟子入りして俳諧の道へ。たびたび旅をし、「奥の細道」「野ざらし紀行」「笈の小文」などを執筆しました。旅の途中、大坂の宿で51歳で没。墓は木曽殿の隣にという芭蕉の遺言により、ここ義仲寺に造られました。

 

 

 

義仲寺;滋賀県大津市馬場1-5-12