◆◆ ロイの書斎 ◆◆ -3ページ目

◆◆ ロイの書斎 ◆◆

頭に浮かんだことをエッセイ風に書き綴っています

どうしようもない映画というのがある。
社会的テーマが盛り込まれているわけでもなく、人生の機微に触れるわけでもなく、エクスプロイテーションにひたむきな情熱を注ぐ潔さもなく、純粋にひたすら面白くない映画。

エド・ウッド脚本の
「死霊の盆踊り」とか
(公開した時はたしか「墓場で盆踊り」だった気が)

ロマン・コッポラ監督の(コッポラ監督の息子)
「CQ」とか

サイエントロジーの創始者L・ロン・ハバード原作、ジョン・トラボルタ主演のSF
「バトル・フィールド・アース」とか。

これらをまとめて「Z級映画」と人は言う。
Z級に認定されるためにはかなり高いハードルを越えなければならないが、そのラインナップにぜひ加えたくなったのが、イ・ビョンホン4年ぶりの韓国映画主演作「メモリーズ/追憶の剣」だ。

高麗末期、3人の凄腕剣士がいた。
ドッキ、ソルラン、プンチョン。
3人は王に反乱を起こそうとするが、ドッキの裏切りで、プンチョンは死に、ソルランはプンチョンの子供ホンイとともに姿を消す。
18年後、ドッキはユベクと名を改め権力を欲しいままにしていた。
ソルランはウォルソと名を変え、プンチョンの娘ホンイを育て、ホンイは武術家としてめきめきと成長していた。
ある日ユベクが主催する武術大会に飛び入りで参加したホンイは、その大会の優勝者と互角に闘い、ユベクの目に止まる。
その剣さばきは、かつての恋人ソルランにそっくりだった。
ユベクはホンイに興味を持ち後を追い、彼女の正体を知ることに。
ホンイの存在がユベクにばれたことを知ったウォルソは、長年の秘密をホンイに打ち明けることを決意するのだった。

生まれて初めて映画の途中で席を立って帰ろうかと思った。
「デビルマン」でさえ最後まで観れた我慢強い子なのに。
(⌒-⌒; )

冒頭から空中を飛びまくる主人公にいきなりがっくり!
重力を無視したワイヤーアクションほど興ざめするものはないことをいい加減わかってほしい。
格闘アクション好きにとって見たいのは本物なのだ。
例えワイヤーを使ったとしても、もっとリアルなアクションがあると思う。
「アクションは、ほぼノースタント」と自慢げにパンフレットに書かれていたが、それは当たり前。
撮影にあたっては、かなり厳しいトレーニングが必要なのは理解しているが、ワイヤーで吊って超人的な動きができるのになおかつスタントがいるなら、アクション映画にでる資格はない。

ストーリーも酷い。
まず王朝をひっくり返すのに3人だけなんてとても大人の発想とは思えない。
その稚拙な計画には失笑したが、少女を一流の剣士に育て、自身もかつて最強剣士と呼ばれたウォルソの目論見には唖然とした。
こちらは笑い事では済まされない。

ー以下ネタバレー

実はプンチョンの娘ホンイは小さい頃亡くなっていた。
ウォルソは自分の犯した罪を償うためにホンイの代わりにお腹の中にいた我が子(ユベクの子を妊娠していた)をホンイとして育て、その子に実の両親(ウォルソとユベク)を殺させるつもりなのだ。
はぁ?
はい、わかります。
まったくその通り
とても正気の沙汰とは思えない。
自分と元恋人を殺させるために子供を育てるとはまったく理解不能である。
これが母親がサイコだとか言うなら話はわかるが、そうではなくて悲しい親子の物語として扱われているから救いようがない。
きっとイ・ビョンホンが出演しているという理由だけで、配給したに違いない。

パンフレットには登場人物を剣に例えて紹介している。
欲望の剣、正義を守る剣等々
だったらどうか私は“忘却の剣”で、この映画を観たメモリーズを全て断ち切りたい。

そう言えばカン・ドンウォン主演の「デュエリスト」でも同じような体験をした。
ひょっとすると韓国の時代劇アクションにだけ特別拒否反応があるのだろうか。
も、もしかしたらこの映画、他の人が観たらすごいいい映画なのか?
ふとそんなことを思ったのは、隣りの中年の女性は映画で感動して泣いていたからである。
(;OдO)えぇ~
映画の予告というのは、心躍るものだが、ロバート・ゼメキス監督の「ザ・ウォーク」を観た時は、特になんの面白さも感じなかった。
実話とはいえ、ビルの間を綱渡りした男の話など映画になるのかとさえ思ったのだ。
たが、これが抜群に面白い。
冒頭から一気に引き込まれた。

フランスの大道芸人フィリップ・プティには大きな夢があった。
当時、世界最高の高さを誇っていたワールド・トレードセンター。
完成間近のこのツインタワーの頂上をロープで繋ぎ、命綱なしで渡ろうというのだ。
共犯者を見つけ、喧嘩別れした師匠に再び弟子入りしてロープを張るために必要な技術を学び、用意周到な計画を立てて迎えた1974年8月7日。
様々なトラブルをクリアし、ビルの間にロープが張られた。
地上411mという誰も見たことがない世界で、フィリップ・プティは一世一代の大道芸に挑戦する。

サーカスに憧れた少年が、独学で綱渡りをやり始め、パリで大道芸人をしながらある時このとんでもない計画を思いつくのだが、主人公自身が語り部となっての回想はここから一気にヒートアップ。
主人公が“共犯者”と呼ぶ計画を手伝う仲間を一人一人増やしていく過程やスパイ映画並みの偵察、綿密な計画、何度も訪れるトラブルなどわくわくさせられっぱなしで、まったく退屈させない。
へたしたら映画版ではすっかり俺様スタントアクション“のみ”と化したあるシリーズ(タイトルは伏せるが)より、よっぽどミッション・インポッシブルな展開であり、チームプレイサスペンスの醍醐味が味わえる。

こんなとんでもない場所にどうやってロープを張るのか、揺れを最小限に抑えるのためにどんな工夫をしたか、許可なくどうやって計画を実行したのかも詳細に語られるので、この辺りもとても興味深い。

そしてクライマックス。
ありえないぐらいすごい。
摩天楼に繋がれた空間の絶景!
地上411mの綱渡りは、まさに圧巻としかいいようがない。
頭がクラクラしてくるスペクタクルにこちらにまで異常な緊張感が伝わってきた。
しかもまさか…
いやこの後は言わないでおこう。
かれは驚きの行動に出る。
パリで大道芸をやっていた頃のエピソードがちゃんと伏線になっていて、自身のアナーキーな魂に従ったのだ。
こうして100の条例に違反した男は、当然ながら最後には逮捕されるが、求刑がまた心憎い。
この懐の深さもまたアメリカなのだろう。

主演であるハリウッドの井浦新ことジョゼフ・ゴードン=レヴィットは言う。
「これは失敗するかもしれないとわかっていても、人生で不可能と思えることに挑戦することについての物語」だと。

昔からの例えで言えば、まさに清水の舞台から飛び降りる気持ちで、主人公のフィリップは、世界一高い舞台で綱渡りをした。
だがプロの彼にとってそれは自殺行為ではない。
綿密な準備と一流の技能に裏打ちされた自信があってこそできることなのだ。
ロープの中央でやった天空でのサルーテ(観客への感謝の意を表す挨拶)にはすべての人への感謝とアーティストとしての矜持が表れていた。

綱渡りは最後の3歩が一番大事だとフィリップは師匠に教わる。
ゴール直前でバランスを崩してしまうことがあるのだ。
この教訓はすべての仕事について言えることだろう。
機会あるごとに強く撲滅を呼びかけているにも関わらず、お手軽タイムスリップが後を絶たない。
タイムスリップは、タイムトラベルと似てるが、自分の意思とは関係なく突然時間をトリップしてしまう現象で、だいたい①か②のどちらかである。

①現在→過去
主人公の道具や知識が役に立ち、歴史上の人物と遭遇しながら、歴史に干渉する羽目に。自分が歴史上の人物になることもあり。
②過去→現在
主人公は現在のテクノロジーに驚嘆(ここはコミカルな演出で)、現代人は主人公の強い志に尊敬の念を抱いたり、異性なら好きになったり。事件が起こり主人公が解決すると、過去に戻され涙の別れ

とりわけ①が気に入らない。
歴史の教科書さえあればいくらでもストーリーが考えられる(もちろん作品に仕上げるにはプロの力量が必要だろうが)。
時代設定としては、戦国時代~江戸時代が舞台になることが多く、ここはスリップ事故多発時代として知られている。
「信長協奏曲」も戦国時代が舞台の典型的な①のパターンである。

戦国時代にタイムスリップした高校生のサブローは、同じ顔をした織田信長と偶然出会い、頼まれて信長になりすますことに。
何度も逃げ出そうとするが、次第に織田信長として生きることを自覚し、戦のない世をつくろうと決心する。

歴史をまったく知らないサブローだったが、史実通りに事はどんどん運び、ついに安土城を完成させるまでに至った。
しかし、同じく未来から来た松永久秀に歴史の教科書を見せられ(肝心なページが破れていて具体的にはわからなかったが)、自分がもうすぐ死ぬ運命にあることを知る。

冒頭でドラマのあらすじをかいつまんで説明して、さぁ続きは映画でどうぞ、というのには驚いた。
映画をテレビドラマの宣伝に使うとは言語道断である。

ディテールの辻褄が合わないところをあげるときりがないのでやめるが、作者もファンもそんなことは、おそらくどうでもいいのだろう。
戦争を知らない現代の若者が、戦に明け暮れ、命が軽んじられた時代をどう感じるのか、逆に現代の若者の考え方が、戦国時代の人々の心にどう響くのか、サブローは時を超えたヒーローになれるのか?
というところが見所なんだと思う。

しかし、あまりにもご都合主義過ぎて、とてもついていけない。
ドラマの本質的な良し悪し以前の問題であり、悪い基盤のうえに何を載せても嘘くささしか感じない。

サブローは、自分がいた時代のように「戦のない平和な世の中にしたい」と言うが、これに違和感を覚えた。
言葉とは裏腹にやっていることは、他の戦国武将となんら変わりない。
殺し合い、戦いに勝って領土を広げていくのだから。
サブローの理想社会のビジョンはさっぱり見えないが、自分が天下統一した後、平和な世の中を作ろうということだろうか。
きっとそうはならないだろう。
暴力を必要悪と認めた時点で、テロリストとなんら変わりない。
力で勝ち取った平和は、結局力で維持するしかなく、封建主義からの脱却も出来ないだろう。
それにそもそも今の世の中は平和だろうか?
日本だけ見れば、たしかに戦国時代より平和で豊かになったかもしれないが、この世はzero-sumで成り立っている。
我々の平和と豊かさは、別の誰かの貧困や争いが下支えしている。
戦争状態の国は今も存在するし(大国は武器で大儲け)、ファストフードやファストファションが安いのは、低賃金で働く発展途上国の人々のおかげだ。
だのに現代が理想的だという作者の一面的な捉え方は、複雑な現代社会を反映しておらず、偏っているように感じた。

サブローは、織田信長として家督を継いでから本能寺の変まで約30年間戦国時代にいたことになる。
30年間戦い続けた男が、ある時突然、例えばまたタイムスリップして、現代に戻り解放されたらどうなるだろうか?
映画のラストは予定調和のどうでもいいものなので、代わりにこんなラストが思い浮かんだ。

現代に戻ってきたものの普通の高校生活にはそう簡単には戻れない(30年の月日が流れたはずだが、戻ってきたのは元の時代、自身の姿も元のままだが記憶はすべて残っている)。
あの時代のことが頭をよぎる。
いつも危険と隣合わせだったが、充実していた日々。
自分の命令一つで命をかけてくれる家臣、美しい婚約者、尊敬してくれる村人達。
忠義、礼節を重んじた日本はもうない。
野心を摘み取る時代では徒競走でさえ順位がつかない。
あまりにも刺激のない生活に抜け殻のようになってしまった。
残されたのは戦国時代を生き抜いた精神力だけだ。
サブローは迷わず自衛隊に入り、レンジャー部隊、第一空挺団とエリート街道を突き進んでいたが、5年後アメリカの民間軍事会社にスカウトされて、内乱の続くアフリカへと旅立つ。

とまあ「ハートロッカー」みたいになってしまったが、サブローが戦いなしでは生きていけないスリルジャンキーになっている可能性は高いだろう。

だが、タイムスリップしていない我々はそんなことにならなくて済む。
失った古き良きものを知り、今を正しく生きることができるはずだ。
マッコウクジラ。
「エイリアン」の最終形態ビッグチャップのような頭部がかっこよすぎる深海の帝王。
その運動能力は、他の生物の追随を許さない。
潜水病にならない彼らは、水圧にも“マッコウ”勝負(不快になられた方。本当にすいません)。
ほぼ垂直に頭から突っ込み2000m近くまで一気に潜水、1時間は潜ったままでいることができる。
また獲物には強力な超音波ビームを浴びせて気絶させる技も持つとも言われる(まだよくわかっていない)まさに生きる攻撃型潜水艦。
もしこんな歯クジラ界のリーサルウェポンが、全長30mにまで成長してしまったならば、人間などひとたまりもないだろう。

ロン・ハワード監督の「白鯨との闘い」はメルヴィルの「白鯨」の元ネタとなった海難事故を映画化したものであるが、実話は小説よりも壮絶な死のオデッセイが待ち受けていた。

1850年、小説家ハーマン・メルヴィルは、エセックス号遭難事件の最後の生き残りであるトム・ニカーソンを訪ねた。
この事件の真相を聞き、それを基に小説を書こうとしていたのだ。
固く口を閉ざすニカーソンであったが、妻に説得されその重い口を開いた。

1819年、捕鯨船エセックス号は、鯨を求めてナンタケットを出港した。
だが嵐に遭遇する不運もあり、1年以上航海するも、鯨油はなかなか集まらない。
そんな時、鯨の大群がいたという情報を頼りにその海域に向かってみると、果たしてそこは鯨の楽園だった。
士気も一気に上がり、鯨を捕獲していると、突然30m級の白い超巨大マッコウクジラが出現する。
あっという間に船は大破、難を逃れた船員達は、3艘のボートで漂流する。
陸地の全く見えない大海の中、わずかな食料と水だけを持つ彼らに待ち受けていた非情な運命とは。

冒頭の出航シーンから操船のリアルな描写に痺れた。
嵐に見舞われた時の恐怖や白い悪魔のような巨大鯨との行き詰まる死闘は、まさに圧巻のスペクタクルだ。
さらに捕鯨船の中にさえ存在する身分の格差、船長と一等航海士との確執、のしかかる鯨油のノルマへのプレッシャーなど濃密な人間ドラマが、ストーリーをドラマチックに牽引し、後半は雰囲気を一変させ、人間としての一線を越えてしまう目を背けたくなる狂気のサバイバルが展開する。

監督が同じだからだろうか、構成としては海洋版「アポロ13」という印象を持った。監督もインタビューでそう答えている。
だが、2つが決定的に違うのは、漂流した後だろう。
死の空間を彷徨う乗組員を大勢の人間が知恵を出し合い助けた「アポロ13」と比べ、本作の乗組員は、生命溢れる海の上にいながらも、死の淵に立たされ究極の選択を迫られる。

それは、人間がむき出しの自然の脅威に対して、いかにか弱く無力かを思い知らされるのと同時に、もし自分ならどうするかを考えずにはいられない。
同じシチュエーションで正反対の結末という意味で「十五少年漂流記」VS「蠅の王」という構図が頭に浮かぶ。
理性を持って助け合うか、蘇ってきた獣性に身を任せ、本能に導かれて行動するか。
どちらにせよ、死と隣り合わせの状況で取った行動は、誰にも責めることはできない。
ただ、助かった船長は自らの行いをすべて告白する。
彼はその瞬間人間らしさを取り戻すことができたのだと思う。
大事なのは犯した罪とどう向き合うかだろう。

それからこの時代、船長になるには高い身分が必要だったことに驚く。
そこまでして資本家が船を牛耳っていた理由は、ずはり鯨油だ。
権力者がエネルギー源を支配したがるのは、いつの時代も変わらない。
B級映画には特別な味わいがある。
デビッド・クローネンバーグ、デビッド・リンチ、ポール・バーホーベン、ジョン・カーペンター、ロバート・ロドリゲス、クェンティン・タランティーノ、イーライ・ロス、三池崇史に塚本晋也…。
みんな愛すべきB級映画をこの世に送り出してくれた。
決して人を感動させることはないが、マニアックなファンだけを限りなく魅了する。
そんなこだわりのあるB級映画はいつまでも心に残るものである。
「IT FOLLOWS(イット・フォローズ)」を観た時、これらの監督達を思い浮かべたのは、正真正銘のまごうことなきB級映画だからだ。
やっつけ仕事丸出しの原題そのままカタカナ読みのタイトルもいかにもB級らしくていい。
往年の名作にオマージュが捧げられているところに監督の映画愛を大いに感じた。
ところが蓋を開けてみると、残念ながら盛り上がりに欠けた。

ジェイは付き合い始めたヒューと一夜をともにするが、ことが終わると、ヒューに麻酔で眠らされた。
椅子に縛られ状態で意識を取り戻したジェイに、ヒューは信じられない話しを始める。
俺は感染したその日から“それ(IT)”につけられている(FOLLOWS)。
悪いがさっき車の中で、君に“それ”をうつした。
君はもう感染している。
“それ”はゆっくり歩いてくる。
“それ”は感染した人間しか見ることができない。
“それ”は知ってる人間だったり、まったく知らない人間だったり、いろいろと姿を変えるが、実体は一つだ。
“それ”に捕まると殺される。
“それ”は、セックスをすることで、別の人にうつすことができる。
誰かにうつせば元の感染者は助かるが、うつした相手が死ぬと今度はまた“それ”から狙われる。
話を終える頃、不気味な全裸の女がジェイに近づいてきた。
ゆっくりと歩きながら
ヒューはジェイを慌てて車に乗せ、誰かにうつせ!と捨て台詞を吐くと、ジェイを自宅の前で放り出して逃げ去った。
ジェイの悪夢が始まる。

主人公の彼氏がゲス野郎なのは置いといて、様々な姿で殺しにやってくる“それ”は、たしかに不気味だが、あまりにも設定不足で面白みに欠ける。
まず言いたいのは、次々姿が変わったら愛着が湧かないではないか。
主人公側に個性がないのに悪い方にも個性がないのは致命的だ。
感染させたら見えなくなると言いながら感染させた後もジェイには“それ”が見えるし、感染した本人だけを狙うと言いながら、向かっていけば他人にも危害を加えるしで、訳がわからない。
後半明らかになるのはどうも“それ”は物理的に存在するということと、どうやら地球外生物らしいこと。
人間のふりした地球外生物と言えば、B級映画の定番中の定番、寄生宇宙生物の侵略だ!
「パラサイト」、「ボディースナッチャー」、「遊星からの物体X」タイトルは数あれど、中身はほとんどが、ジョン・W・キャンベルの「影が行く」か、ジャック・フィニィの「盗まれた町」のどちらかがベースになっている。
しかし本作はちがう。
宇宙生物に寄生されるのではなく、ただ狙われて殺されるだけ。
ちなみにだれかにうつせば助かるというルールはある意味「リング」に近い。
感染の数珠繋ぎ。いや繋がってないか。
うつしたらそのまま“それ”にストーカーされるという有難くない権利までそっくり移譲されるので、感染のバトンタッチとでも言おうか。
感染したらもれなく“それ”がついてくる。
究極の理由なき殺戮訪問サービス。

ジェイは“それ”を別の人間に感染させるため、本人承諾のもと近所に住む友達とベッドインするが、しばらくして“それ”と思われる侵入者が、友達の家に現れたので助けに行ったが、あっけなく殺される。
この流れから行くと、今度はその友達の姿になった“それ”がジェイを襲いに来るのかと思いきやそれはなし。
またジェイが海辺を散歩していると、沖の方で数人の男がボートに乗って遊んでいる姿が見える場面がある。
彼女は服を脱ぎ、下着姿で海の中に入ろうとするが、そこでカット。
思い余って見ず知らずの男に自分をレイプさせようするが、思いとどまるシーン…と思ったのだが、後に繋がらないので、ただの無駄なカットだった。
こんな風にいくつかある伏線と思われるシーンに対してタイトルとは裏腹に何のフォローもない。
観客の期待を裏切って、お約束を逆手に取った面白さなら納得できるのだが、あちこち穴だらけで、思いついたアイデアをそのまま勢いだけで作った感じだ。

理由なく追いかけられる映画が悪いわけではない。
「鉄男」も「ノーカントリー」も理由は説明がないが面白い。
問題はそうではなくて、何と言えばいいのかエッジが効いてないのだ。
「キャビンフィーバー」なんて、ストーリーに何の関係もない警官までキャラが立ちまくってて、なにかしでかしそうで目が離せない。
こういうイカれた感じこそがB級映画の醍醐味なのに、この作品からは監督のビジョンも狂気も何も見えてこない、なんのフォローもない映画だった。
深夜ザッピングしていると、たまにマニアックなアニメに出会うことがある。
決して面白いものばかりではないが、中には気になるものも。
「化物語」に代表される物語シリーズもその一つだった。
最近ドラマになった「掟上今日子の備忘録」の原作者としても知られる西尾維新が原作のアニメ化であるが、このシリーズの魅力は、なんと言ってもアニメそのものの表現にあると思う。
凝ったネーミング、人気のない背景、何度も出現する文字のフラッシュ、やたらに長~いつぶやき(ここは原作も同じだと思うが)、2次元コンプレックス好みの女の子のビジュアルなど、あきらかにオタク系の視聴者を意識した作品ではあるが、夜中に観るとその独特のタッチにハマる人もいると思う。
映画化された「傷物語」は、「化物語」のプリクウェルに当たり、主人公が体験する地獄の2週間を描いた3部作の1作目である。

私立直江津高校の2年生、阿良々木暦(あららぎこよみ)は、終業式の日、学校一の優等生である同級生の羽川翼(はねかわつばさ)と知り合い、吸血鬼の噂を聞いたその夜、死にかけた美しい金髪の吸血鬼に遭遇する。
彼女こそ怪異の王と呼ばれる伝説の吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(以下キスショット)だった。
一度は見捨てかけたが、四肢を切断されもがき苦しむ彼女を放っておくことができなかった暦は、自分の血をすべて吸わせて助けてしまう。
それが不死身の存在に生まれ変わる行為とも知らずに。

これ以上書くとあらすじではなく、全容が明らかになってしまいそうなのでやめておく。
上映時間は64分と短く、120分にしてうまく編集すれば1本で終わりそうである。
最近1作では完結しない連作が後を絶たないが、中高生向けの(いや大人の向けか?)アニメまでこんなやり方はしないでほしいと切に願うばかりだ。
アニメで確立した独特の世界観はもちろんそのままでいいと思うが、映画の尺で収まる工夫はあってもいい。
ただ、このなかなかストーリーが進まないだらだらしたオフビートな感じがこのシリーズらしさなのかもしれないが。
すべての人が傷を負う誰もが不幸になる物語になるそうで、続きは正直気になる。
次回も観るかも。
ネイチャードキュメンタリーこそまさに映画館で観る価値のある映画だろう。
自然が作り出す脅威にはいつも圧倒されるばかりだ。
「シーズンズ 2万年の地球旅行」もそういうインドア自然愛好家にもってこいの映画…だと思ったのだが。

○2万年前、氷河期。
すべてが凍りつく世界で生き延びた動物たちがいた。

○1万年前、氷河期の終わり。
氷河期を生き延びた動物達はより寒い場所に移動し、暖かい場所には新しい生命が宿る。

○四季の始まり、森の黄金時代。
豊かな生命を育む森では人間も含めた動物達が、四季折々のリズムを保ち生態系を形成していく。

○人間と動物の関わりの変化。
やがて人間の生活は、自然のバランスを崩し始める。

○人間と動物の共生
自然を恐れ破壊し、自分達の秩序で自然を支配しようとした人間に今つけが回ってくる。
はたして人間はこれから自然と共生していけるのだろうか?

冒頭から
(・.・)おや?と思った。
映像はたしかにすごい。
これはまず言っておく。
一見の価値ありのシーンが盛りだくさんだが、ドキュメンタリーでありながらその映像を2万年前や1万年前の地球だという偽りのナレーションで再現していく演出は如何なものか。
しかも途中で原始人に扮した人間が登場してきては、川口浩探検隊と変わらない。
もはやこれは実際の映像を使ったフィクションだ。
パンフレットの解説には新しい形のネイチャードキュメンタリーだとのたまうコメントもあったが、いやいやそんな作り物を混ぜたドキュメンタリーなんて過剰な演出でしかない。
しかも季節が何度も巡るので、なんともメリハリのない編集だった。
タイトルのイメージ通りに行くなら映画全体を4つの季節に分けて順番に映した方が良かった気がする。
それに気になったのは、肉食動物達の狩りのシーン。
獲物を仕留める直前までしか映さない。
だが、こういうものは、獲物を仕留めて、食べるシーンまでちゃんと見せてこそ意義がある。
それは自然の摂理であって、けっして残酷なものではない。
我々もまた同じように日々他の命を奪って生きているのだから(菜食主義も同罪だ)。
またテーマが曖昧で、後半は次第に人間の自然への冒涜を糾弾していくが、ちょっとテーマを欲張りすぎた感がある。
森林を伐採したり、森を切り開いて道や田園を作る行為が、自然破壊と言いきるならこれからどうしていけばいいのか、その提案までしてほしかったし、これはこれで別の作品にすべきだ。
つまり…
おっと!
その前に
ここまで言うならこれを作ったスタッフは、もちろん全員、撮影中は自家発電機ではなく、太陽電池で充電して、普段もディーゼルやガソリンの自動車や、ましてや自家用ジェット機に乗ったりしている人は1人もいないんでしょうねとまず聞きたい
ってほら、こんな風に論点がどんどんずれてくる。
で、さっきの続き
つまり
ネイチャードキュメンタリーは、必要以上にあからさまなメッセージを唱えるのではなく、自然の素晴らしさを知ることで、その大切さが伝わればいいのではないかと思う。
不自然すぎる自然描写に呆れた。
時空を超えたって真実まで超えたらあかん!
クリムゾンとは、濃く明るい赤色のことだが、映画のタイトルとなった場合、アンハッピーな内容が多い。
それは血をイメージさせる色だからだ。
ギレルモ・デル・トロ監督の「クリムゾン・ピーク」には、土壌が血のように赤い山頂が登場するが、そんな場所に建つ恨みの館では、当然のことながら、おぞましい血の惨劇が繰り広げられるのだった。

20世紀初頭のニューヨーク。
作家を目指す女性、イーディス・カッシングは、幼い頃母を亡くしたが、たびたび母の幽霊に悩まされ、意味不明な警告を受ける。
「クリムゾン・ピークに気をつけなさい」
やがて彼女はイギリスから来た準男爵の実業家トーマス・シャープに心を奪われるが、イーデスの父親は、トーマスの身元を調査して彼の怪しい正体を知り、金を渡して、同行していた姉と一緒にイギリスへ帰るよう要求する。
だがシャープ姉弟が帰る直前、イーデスの父親は不可解な死を遂げ、何も知らないイーデスは、トーマスの求婚を受け入れ、イギリスへと旅立つ。
トーマスの屋敷に着いてすぐにイーデスの前には次々と亡霊達が現れるが、トーマスも義理姉も聞く耳を持たない。
しばらくして屋敷が建つ山頂は、冬になると表面の赤い粘土が、地表の雪を血のように赤く染めることから「クリムゾン・ピーク」と名づけられていることをイーデスは知ることになる。

作り込んだセット撮影のいわゆるゴシックロマンスだが、頬にナイフがズブズブと突き刺さる感触などには、デル・トロらしさが伺える。
隠蔽された過去の殺人、姉と弟のインモラルな関係、秘密を握る地下室。
次々と恐怖のアイテムが迫ってくるが、もっと根の深い関連がほしかった。
殺人鬼がどんな生い立ちで、どういう経緯で誕生したのか、なぜ母親の霊が危険を予告したのか、その辺りがうまく絡んでいたらもっと面白かった。
被害者の亡霊達が次々と主人公の前に現れては脅かしていくが、この被害者友の会はやはりクライマックスに集団で出てきて活躍してほしかった。
想像していたのは、クリムゾン・ピークそのものに邪悪な力があるのではということだったが、何もなかったのはちょっともったいない。 
さて、
クリムゾン・タイド
クリムゾン・リバー
クリムゾン・ゴールド
そしてクリムゾン・ピーク
と様々なクリムゾン映画(この括りはどうかと思うが)が軒を連ねてきた。
次はどんなクリムゾン映画がくるのやら。
生涯に1本だけ映画を撮りたいという夢を叶え、テレビドラマの巨匠石橋冠がメガホンを取ったのが「人生の約束」だ。
友が果たせなかった願いを代わりにやり遂げることで、男の中で何が変わったのだろうか?

IT関連企業のCEOである中原祐馬は、強引な手法で会社を拡大してきたワンマン経営者。
ある日、かつての共同経営者、塩谷航平から数年ぶりに何度か電話があったが、祐馬はそれに応えなかった。
航平とは学生時代からの親友だったが、経営方針で衝突し、会社を追い出す形で決別して以来連絡もとっていなかったからだ。
だが秘書の勧めもあって、航平の故郷である富山県の新湊(しんみなと)にある四十物町(あいものちょう)に行ってみると、航平は帰らぬ人となっていた。
余命幾ばくもなかった航平が故郷に帰り、最後までこだわっていたのは、曳山だった。
新湊には全国的にも有名な曳山祭りがある。
各町で自慢の曳山(山車)を曳いて、町中を練り歩くのだが、四十物町は財政難から祭りの命である曳山を、今年の祭りまで曳くことを条件に、西町に売り渡してしまった。
だが西町の町内会長は、約束を翻し、そんなことは言ってないと突っぱねたのだった。
航平は死ぬ間際まで西町に抗議を続けていた。
一方、東京では祐馬の会社が不正取引の嫌疑をかけられ強制捜査を受けていた。
祐馬はいずれ責任を取って辞任することになる。
会社も友も全てを失った祐馬は、亡くなった親友への想いと、今自分がすべきことをネットに投稿する。
これがきっかけとなり、新湊全体が四十物町のために動き始めた。
祐馬も再び新湊に向かう。
曳山を取り戻すために。
だが、祭りは目前に迫っていた。

夜、提灯で飾られた13本の曳山が一堂に会する場面は、勇壮でとても美しかったが、すべてセオリー通りに仕上がっているようで、画面の盛り上がりとの温度差を感じずにはいられなかった。

まず主人公が簡単に心変わりし過ぎ。もっと嫌な奴で徐々に変わっていかないと、それまでの傲慢さはなんだったとかと思う。
キャラクターが浅すぎる。

また「友よ」ではじまる主人公のネットへの投稿が、四十物町のみならず新湊地区全体を盛り上げるムーブメントになるほど影響があったのなら、その感動的な文章は、ぜひとも全文をしっかり見せるべきだ。
でないと堤幸彦監督の「BECK」と同じになってしまう。
音楽映画でありながら主人公の歌だけが聞こえないという信じられない演出は、原作者の意向らしいが、すべての人を虜にする歌声が映像で表現できないなら作っても意味がない。
この投稿も同じで、観客が読んで本当に感動するものでなければ、その後の展開にリアリティを失う。
そこへ持ってきて、曳山で魂が繋がるなんていきなり言われても「アバターか」
ヾ(- -;)おいおい
と突っ込むしかない。

そもそも西町にはなぜ曳山がないのか?
なぜ西町の町内会長は、約束を破ったのか、その頑なな態度の理由も含めてドラマに盛り込まないといけない。町内会長は途中から出てこなくなり、放置プレイ状態だった。

祐馬も祐馬で、曳山を取り戻すと言っておきながら、最初に金で解決しようとして失敗し、やったことと言えば前述のネットへの投稿だけ。後は他人任せだ。
いったい何をしに来たのかよくわからない。
まぁ、最後は曳山を曳いて感動して泣いていたが。
つまりすべてざっくりしすぎなのだ。
予定調和に向けてひたすら突き進んだ印象で、細かい機微の描写に欠ける。

がむしゃらに突っ走ってきた主人公に対して、人生の踊り場で立ち止まり、振り返ってみることも必要だと諭すシーンがあるが、それをこの作品自身にも言いたい。
現役男性アイドルの書いた小説の映画化「ピンクとグレー」は、スターを目指す若者を主人公としたまさに原作者の等身大とも言うべきストーリーであるが、話題になった映画が始まって62分後の衝撃には甚だがっかりさせられた。

鈴木真吾(ごっち)、河田大貴(りばちゃん)、石川紗理(サリー)は、11歳の頃団地で知り合った幼馴染。
真吾と大貴は、読者モデルから芸能界に入り、街で偶然サリーと再会する。
やがて、真吾はチャンスを掴み、白木蓮吾という芸名で一気にスターダムへのし上がるが、同居する大貴は、エキストラのまま。
2人の溝は徐々に深まり、喧嘩したのをきっかけに仲は決裂、大貴はサリーの家に転がり込み、同棲し始める。
喧嘩別れしたまま5年が過ぎて、同窓会で2人は再会、久しぶりにきちんと話し合った2人は、ようやく仲直りをした。
次の日、真吾のアパートで目が覚めた大貴は、真吾の置き手紙を読み、その約束通り、夜に再び真吾の家を訪れると、首吊り自殺をした真吾と6通の遺書を発見する。

ー以下ネタバレありー

散々宣伝していた上映62分後の衝撃だが、なんのことはないこれまで観ていたのが、すべて劇中劇だったという仕掛けだ。
しかもそれをメタフィクション風に仕上げていたが、いかんせん出演俳優目当てで映画を観に来た若い女子の多くは、行定監督の顔など知らないだろうから、本物の監督が劇中劇の監督役で登場しても、それがメタフィクションであることさえ気づかないだろう。
叙述トリックかと言うと、そうでもなく、こんなことを言ってしまっては身も蓋もないが、この大掛かりな仕掛け自体、やめて普通のストーリーにしたところで内容的にはなんら変わりなく、単に観客を混乱させるだけの効果しかない。
画面は後半、カラーからモノクロに変わる。
タイトルに倣うと友人が死ぬまでの劇中劇がピンクで、後を継いだ主人公のその後が、グレーとしてイメージされているので、それを映像化したものだが、グレーになっても謎は何一つ明かされない。
ミステリーに見せかけたまやかしのグレーである。
例えば6通の遺書とはどんな内容だったのかもわからず、真吾の姉の死についても自殺をほのめかすような台詞があるが、事故なのかどうなのかも曖昧で、近親相姦的な禁断の愛もありそうな、なさそうな。
真吾の自殺の真相に至っては、劇中の関西弁の台詞通りなんとも「しょうむない」理由である。

こういう場合、想像できるパターンとしては、
友人の死を利用してスターになろうとした主人公が、その亡霊に悩まされ、最後には自分も狂って自殺するとか、逆に亡霊と対峙しながら成長して本当に自分の力でスターになっていくとか、実は死の原因が、芸能界の闇社会にあって、それを暴いて友の無念を晴らすとか、なんらかの大きな展開があってもいいのだが、思わせぶりなだけで、な~んにもない。
もしかしたら友達の自殺は偽装で、主人公が殺したのかもとも思ったが、もちろんそれでもなかった。
主人公は、ギリギリまで追い詰められることもなく、明るい未来が見えたのでもない。
何もかもがグレーのままだった。