「悔しくて死にそう」 | UNIV. of TSUKUBA Rowing Team

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部員が日々の出来事や練習、試合の予定や結果についてかいています。
気楽に書きますので温かい目で見てください!



みなさんお久しぶりです。「じゃが」こと藤岡正吾です。

 

 

 

 

今回は、ずっと考えていたことについて書こうと思います。少々長くなりますし、かなり重い内容です。先にことわっておきます。

でも、これが私の五大学を終えての振り返りです。競技面その他関連は仲間たちに任せます。それでは。

 

 

 

 

「勝つ」ってどういうことでしょうか。「悔しい」ってどういう感情でしょうか。競技に生きる私たちにとっては永遠の課題のように思われます。

私がとても影響を受けた、京都の吹奏楽部がテーマのアニメ『響け!ユーフォニアム』の一期一話の冒頭にはこんなシーンがあります。中学の吹奏楽コンクールで、主人公たちの学校は金賞ながらも全国大会には出場できませんでした。主人公は「金賞を取れた」ことに喜びますが、隣に座る同期は泣きながら「悔しい、悔しくて死にそう」と声を絞り出します。それを見て主人公は「本気で全国行けると思ってたの?」と言うのでした。

 

 

 

 

さて、この場合はコンクールでしたが、競争において、勝ち負けは必ず存在します。どの地点をもって「勝った」と言うのか。高校に入った彼女らは、全国で勝つ、日本一になるという目標を掲げますが、その本気度はどれほどなのか。部全体で、その意識は「同じレベルで」共有できているのか。

 

 

 

 

私は高校の頃からボートを漕いでいますが、県内の競争率がとても低かった(県内二校のみ)ので簡単に九州大会、全国大会へと進むことができました。ただ、全国大会に進となると、福井や愛媛、岡山、熊本など「経験や体格の差でどうしても勝てそうにない」相手と対峙することになります。そういった場合、目標をどこに設定するべきでしょうか。顧問の先生は日本一を目指すと言っているけれど、なぜ日本一になることを目指しているのでしょうか。そんな中自分が掲げた目標は、「いけるとこまでいってみる」でした。

 

 

 

 

高校まで、どんなスポーツも上手く出来ませんでした。野球のボールあさっての方向に飛んでいくし、バスケは仲間の妨害をしてばかり。でも何かやりたかった。他のみんなができないことをして、自信をつけたかった。特別なやつになりたかった。そんな時出会ったのが、ボートでした。

人よりちょっと太い骨と重い体重のおかげで、エルゴははじめから回りました。集団の中で自分が上位に立てるスポーツ、必要とされるスポーツに出会ったのが嬉しくて、ボートが大好きになりました。

 

 

 

 

なぜボートを続けているのか。それは勝ちたいから?日本一になりたいから?

 

 

 

 

否。自分が「できる側」にいられるからです。自分という人間が必要とされるからです。特別な人間になれるからです。存在を証明できるからなんです。




確かにボートという競技自体大好きですし、艇も所属組織も、ボートがきっかけで出会えた人みんなが大好きです。でも、続ける一番の理由はそこじゃない。

 

 

 

 

こんなにいやらしい、自己中心的な理由で漕ぐのは競技にも仲間にも失礼でしょう。ごめんなさい。でもそうなんです。

「勝つ」という目標を、未来を、どこか信じ切れないのは、こんな動機でいるからだと思います。

 

 

 

 

そんな私にも、一回だけ、死ぬほど悔しくて涙が止まらなかったことがあります。

それは高校三年のインターハイで負けた時でした。記念写真を撮る、と並んだときに涙が止まらなくなって。こんなところで終わるクルーじゃない、終わっちゃダメなのに、という気持ちで溢れていました。「いけるとこまでいってみる」という目標は、いつの間にか「ここまではいきたい、いけるはず」という未来への確信に変わっていたのです。

 

 

 

 

つまり。

 

 

 

 

負けた時に「悔しい」と思うのは、勝利を信じていたから。自信を持っていたから。勝つ未来を確信していたから。

それがただの幻想へと変わる瞬間に、崩れ去った未来の破片が涙となって溢れるのでしょう。あの時、右後ろから歓喜の声が聞こえてから。背後から、先輩の息切れと嗚咽が聞こえてから。それでも涙が出てこないのは、未来を信じていなかったからに他ないのです。

仲間たちは未来を信じていた。私は信じ切れていなかった。破片を顔いっぱいに散らした同期を抱きしめがら、私は「結局信じていなかった」自分自信に絶望していました。

 

 

 

 

負けた時の涙を流すこと、死にそうなほどに悔しくなること。

これが目標というのはおかしな話ですが、それほどまでに強く勝つ未来を信じたことが、私の人生の中で何回あったでしょうか。正直、片手で数えて足りてしまうのでしょう。自分で書いていてアホらしくなってきました。でもそうなんだろうなぁ。

 

 

 

 

かなり無責任なことです。去年の五大学エイトでも、五大学にかける先輩方の想いを理解せずに漕いでいました。理解できなければ、同じ覚悟で臨むこともできません。やっぱりあの時も、涙は出ませんでした。むしろあれだけ競れたことを喜んでいました。

ここに、冒頭の主人公と同期の関係が重なります。

 

 

 

 

となると、自分はこのスポーツにおいて、どこに価値を置いているのでしょうか。勝利よりも別の場所に価値を置いているはずです。

ボートをしていて、どういったときに喜びを感じるかについて考えるとわかりやすいかもしれません。私の場合は、「上手く漕げたとき」「艇を上手く進ませることが出来たとき」「周囲の景色がきれいなとき」「クルーで漕ぎが合ったとき」こんなもんでしょうか。

どうやら自分の主眼は、レースよりも普段の練習や競技そのものに向いているようです。

それでも試合に出るし、クルーを組んでいます。勝つために全力で漕ぎます。

 

 

 

 

試合に出て、勝ったときはそりゃ嬉しいです。壮絶な叩き合いを制したとき。他の艇を見ながら余裕でゴールしたとき。勝って、うまくいって、周りのみんなから褒められるとき。

やっててよかったな、と思う瞬間はたくさんあります。

 

 

 

試合に出て、負けて、全く悔しいわけじゃない。でも、周りのみんなほど悔しがっていない。どこか冷めていて、負けたということをそっと受け止めるだけ。ここまでやりきった、ということに満足しているだけ。

 

 

 

 

この歪みをどうにかしたい。この世界に入ってからずっと悩んでいることです。

 

 

 

 

ここから先は仮説です。負けて涙が出た試合とそうじゃない試合。比べてみると、「自分が中心となって艇を作ったか」に違いがありそうです。高三の夏は完全同期クルーだったこともあり、確かに中心でした。でも今は?助言も反省も評価も全部先輩に頼り切り。自分はクルーの運営や雰囲気にどれほど寄与したのか?

出発点は、試合に勝つことへの義務感や自分の希望、目標など色々あるでしょう。その中でクルーを組み、結局は「勝つために」行動する。どんな試合、クルーであれ「勝つんだ」という気持ちに突き動かされて、中心となる人物は艇をつくっていくのではないか。あの時泣いていた同期は、「勝つために」必死に自分の漕ぎと向き合い、先輩の助言に向き合っていたんじゃないか。

これから組むクルーがどういったメンバーになるかは分かりません。ただ、自分がそのクルーにどれほど貢献したかによって、勝つ未来をどれほど強く信じられるかが変わっていく。

学年の幅が広がるほど解決が難しくなる問題のようにも思えます。

 

 

 

 

再び冒頭のシーンの話に戻りますが、そのシーンがとても心に残っているのは、悔しくて死にそうと絞り出した同期のような気持ちに憧れているからだと想います。

自己中で、ちょっと上手くいったらそれで満足。そんなところから飛躍したい、「いけるとこまでいってみる」から「ここまではいきたい、いけるはず」という気持ちで臨みたい。

 

 

 

以上です。

今シーズンは始まったばかり。自分に向き合い続けます。