愛と平和の弾薬庫 -26ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

彩子は風呂場の、いくらこすっても曇りの取れない鏡に向かって化粧を落としてる。そんな彩子の横顔に俺は言う――なんでそんなにご機嫌なんだよ、あの子を見て。

 へ?と彩子はこっちを向く。目元が白黒にデロデロだ――なんで? あの子を見てわたしがご機嫌じゃいけないの?

湯気が不穏な色に染まる。

いや、何つうかさ――俺は言葉に詰まる。

何つーか? ――彩子の口がとんがる。

何つうかぁ――やっぱ訊かなきゃよかった! 

無駄なシミュレーションに、でかいため息が出た。湯船に顔を伏せてフーッとその息を吐き出す。実際にはブクブクと。

次の瞬間、焦った。沈めた顔が上がらないのだ。彩子だ。な、何だっつんだ! 首を横に振った。ブハッ! やっと息をして叫んだ。

「死ぬっての!」

顔を近づけてきて彩子が言う。

「焦った? マジで焦ったでしょ、今」

笑う。

「でもさあ、マッジ可愛いよねー、あの子!」

 口を開きゃあこれだ。どんだけだ? どんだけあいつが気に入ったんだ?

 もうすぐ50回にはなろうとしてる彩子のニタつきを前に、さすがに俺は悟った。ニタついて当然の状況にあるからニタついてる、それだけの話なのだ。彩子にとっては。その状況は、俺も、ってか、きっと誰もがニタついて当然の状況なのに違いない。だから彩子は何ら屈託なくニタついてるのだ。その状況には誰も疑問も異論もはさめない。そんなことをしたら、〈ニタついて当然な状況〉は一瞬にして〈ニタついてんのが当然じゃない状況〉へと変貌しちまうのだ。崩壊だ。彩子が今いる世界の。

俺が彩子のニタつきに疑問を投げかけるってことはすなわち、彩子が今安穏と過ごしている〈気がつくとニタついてる、きわめて幸福な世界〉をぶっ壊すってことなのだ。

そんなことは断じてできない。奈美恵が安心してここにいて、彩子もきのうまで以上に幸福そうにここにいて、というこの均衡は決して崩せないのだ。もしその均衡が崩れたら、彩子は急転直下、怒りと混乱の魔物と化し、奈美恵は路上にはじき出され、俺の平和も大粉砕だ。GAIA9にやられた福島県民のように。

彩子のニタつきの原因がはっきりするまでは、絶対へたなことは言えない。現状維持あるのみ!今はそれが、俺の人生のすべてだ。



風呂から上がると俺はテレビ、彩子は鏡の前で化粧水ピタピタ、で、まだ10時にもなってない。でも明日は早い。じゃあ今夜は早めに……ってなムードに、奈美恵さえいなければなるところだよなあ、とか考えてたら彩子がテーブルを部屋の隅に寄せて俺の布団を敷き始めた。敷き終わるとテレビを消した。まさかやるの?と思う間もなく電気も消した。マジすか? 奈美恵の前で? 

マジ、奈美恵の前で、だった。つうか隣りの俺の布団で、彩子はいつものごとく、ストラト・ボディを駆使した最高なあれに突入しようとした。

奈美恵が半眼で立ち上がったのは、俺がゆっくり押し倒された時だった。

 「あらららら!」

 下着姿の彩子が、あわてて立ち上がった。

 「はいはいはい、トイレはこっちねぇ」

何がどうなってんだ?なんて悠長にかまえてる場合じゃないのかもしれない。俺は目の前の様子を見ながらそう思った。俺は思った以上に、とんでもないことをしちまったのかもしれない。

狂っちまったんだ……彩子。

俺がこんな、彩子とは正反対の風貌のちょっとイカしたロック系の、ほんのちょっとだけ若い女を部屋に送り込んじまったせいで、どこがどんなふうになんてことは心理学者でも精神科医でもないからわかるわけもないが、とにかく俺は、彩子のどこかを壊しちまったのだ。いまだ革ジャンを着たままの奈美恵の肩に手を添え、トイレに連れていく、そんな彩子の姿を見てたら顔がさーっと冷えた。血の気が引くってのは、このことだ。

いや……いやいや……いやいやいや!決めつけるのは早い。早いぞ、ソーヤ。あの目を見ろ。あれは狂った人間の目じゃない。

でもほんとに狂ってる人間ほど、まともっぽい目をしてるって言うぞ。第一いつも通りやろうとしてた、あれは何なんだ? 奈美恵の隣りでなんて、まともな人間にできるか?少なくとも、まともな状態の彩子ならしねえぞ。……やっぱおかしくなっちまったんだ。奈美恵の登場で――俺のせいで。

彩子はトイレの前にしゃがみこんで、奈美恵が出てくるのをニコニコ待っていた。そん時の顔を実際に見たわけじゃないが、奈美恵を連れて戻ってきた時の顔で、たぶんそんなふうだったんだろうと察せられた。奈美恵は半眼のまま、彩子にぺたぺたお尻を叩かれながら戻ってきて、再び従順に彩子の布団に入った。

 「やっぱ、明日早いし、わたしも何か疲れちゃったし、ね」

 彩子が、ごめんねって感じに顔をくにゃっとさせた。

 「だな。寝るか」

 俺だってとてもそんな気にはなれない。彩子の申し出にかなりホッとしつつそう答えた。ただ身体的に、俺は彩子と正反対の状態だ。全然疲れてなんかないし、頭なんて冴え冴えだ。

「もう一本だけもらうわ」

と俺はもぞもぞ布団を抜け出した。冷蔵庫から彩子が買い置きしてたハイボールの缶をもらう。シンクの上の電気をつけてハイライトに火をつける。ハイボールのプルタブを開ける。缶のハイボールは、どこにアルコールが含まれてんだか探したくなるぐらい、俺には薄かった。やっぱ今度、安いバーボンでも買っておこう。

布団に戻って横になったら、彩子の寝息が聞こえた。やがてそれはいびきのような響きをともなってきた。彩子のいびきなんて初めて聞く。これも〈奈美恵ショック〉のせいなのか?

 彩子はあっちを向いて、〈がぁいー奈美恵〉見守るようなかたちで寝てる。そんな彩子の背中を見てたら、何か妙な感じがしてきた。胸の中がムズムズ、チクチクしてきたのだ。

 何なんすか?これは。まさか、あれ、すか?でも、なんで?

それは「彩子が狂っちまった」っつう恐怖をやわらげてくれるものではあった。ではあったから、最悪の状態を考えてた俺を、ある意味ホッとさせてくれるムズムズで、チクチクではあった。でもそれはしっかり、確かな感覚をともなってムズムズしてて、チクチクしていた。

俺はそのムズムズやチクチクを、22年の人生の中で、何度か経験していた。彩子が他の同級生の男の話を楽しそうにしてる時とかに発生する、それはムズムズで、チクチクだった。一言で言えば嫉妬。

俺が奈美恵に嫉妬?俺は布団の中で喉のつばを、ごっくん、飲んだ。タカラヅカ、という言葉が頭に浮かんだ。

くだらない、と思いつつも、彩子の背中が俺に考えさせる。

奈美恵って。この女、宝塚のお姉さん、みたいな?なのか?男にじゃなくて女にモテモテの、女にばっか効く媚薬オーラをまき散らす、奈美恵は、可愛い系のニューヨークパンク型「宝塚のお姉さん」みたいな?つうか「妹」みたいな、なのか?で、「がぁいーでしょおぉ」?で、トロトロのニタニタ?

 嘘だろ。

こっち向いてくれ!俺は彩子の頭に念じた。そっち向いて寝てないで、こっち向いてくれ!目を開けて、やっぱソーちゃんがいいって言ってくれ!

富岡方面のことが頭に浮かんできた。

ミハルちゃん……富岡の同棲相手のミハルちゃんは「もっといていいよ」と言った、と奈美恵は言った。その言葉は、ミハルちゃんにも奈美恵に深く同情できる何かがあって、そんな同情が言わせたんだとばかり思っていた。でも、もしかして、ミハルちゃんは奈美恵に、マジでもっといて欲しかったのかもしんない。純粋に 「ずっとそばにいたくて」、だから 「もっといていいよ」 だったのかも、だ。そんなミハルちゃんの熱くなりようが、奈美恵から見て 「もう限界だった」……。だからひと月で富岡の家を出ざるをえなかったのだ。

だとしたら……

奈美恵の登場で傷つくのは実は彩子なんかじゃなくて俺?

マジすか?

 いやいやいやいやいやいやややややや、まあ落ち着け、爽也。彩子はいつも通りやろうとしたじゃないか。しかも彩子のほうからだ。さあやりましょうって感じに、彩子のほうから。

そうそうそうそう、そうだったじゃないか。考え過ぎだ。つうか、まさか、もしかして、一応いつも通り「儀式」としてやろうとしただけなんだろうか。でもやっぱわたしできない! もうソーちゃんとなんて。それでやめちまったんだろうか。

まぁさか。考え過ぎ考え過ぎ考え過ぎだ、爽也。つうかもう考えるな。いくら考えたって答えなんて出やしねえんだから。

とにかくあれだ。明日にでも奈美恵から聞くしかない。寝ろ寝ろ、爽也。明日から新しい仕事だろうが。

寝られるわきゃない。

おい、彩子の向こうに寝てる女! 彩子ならしっかり寝てるぞ。そろそろ教えろ。彩子どうなってんだよ。どうしちまったんだよ。狂ったりしてねえよな。急に同性愛の人になったんじゃねえよな。

等々、グダグダのループにはまってたらいつのまにか寝た。

        2


 きょうから新しい仕事に入る。

午前9時、二人ひと組みでコール&レスポンス社の契約したタクシーに乗り、あらかじめアポが取れている個人宅に向かう。その家に着いたら二人で上がり込み、一人はその家のラフ社製テレビのとある部分をいじくる。正しくは「検査」する。検査してるあいだ、もう一人はその家の人に検査の趣旨と内容を説明などしつつ、話し相手になって間をもたせる。お茶は極力辞退するが、コォシィぐらい飲んでったらいっちゃとか言われたら無理には拒まない。茶請けも同様。

最終打合せ的な約一時間の説明会で、その場を仕切ったC&R社の三十ちょい前ぐらいのお兄さん――小高氏は面倒臭そうに早口で言った。「そのへんはテキギってことで」

検査で問題が見つかることはほぼ100パーないらしい。

「問題の箇所、もしくはテレビ本体を交換しなければならないのは、まあ1000件中2、3件というところです」

面接の3日後に招集、開催されたその説明会で、俺はなぜか一番前の中央の席に座らされた。座る席を指示されたのは俺だけだ。歳の割りにはチャラくなくて、言葉づかいもそれなりのようだし、まあまあ使えそうだから採用はしたが、なんかいまいちボンヤリしてそうな気配もあるからしっかり叩き込め、とでも言い含められてきたんだろうか、顔つきや話しぶりから見るにボンヤリ度では俺と大差なさそうな小高氏は何かしゃべるたびにいちいち、わかったな、とでも言いたげに俺の目を見た。

よーくわかった。このバイトはぶっちゃけ、「一応見に来たし、そんで大丈夫だったからさ、安心して使ってね、このテレビ」と言って回るだけの仕事なのだ。

案の定、後頭部にしっかり寝癖の小高氏は言った。「検査はこの通り、プラスドライバーの使い方さえわかっていれば誰にでもできます」で、続けた。「ただそのお宅お宅でテレビが置かれている場所やその周囲の状況、それにDVDやブルーレイ、その他カラオケ等々、つながれている機器の数で二十分で終ったり1時間以上かかったりもします。のでその一軒が終るまで、次の家には決して到着時間の電話を入れたりしないよう、この一点だけは厳守してください」

トラブルの種を摘んで歩いてるっつうに、新しい種をまくなってことだ。

 てな検査に市内なら5、6軒、市外だったら2、3軒回る。小高氏が「拠点」と言ってたC&R社への帰還はだいたい午後六時。戻ったら「どのお宅も異常ありませんでした!」つって依頼宅のハンコをもらった書類を出して終了。実働8時間で日当1万。残業は1時間1500円。体力を使うでもなしでこの額は中々ないから、かなり希望者があったらしい。俺が採用されたのはこの見せかけの丁寧さ、それにたぶん、この割のいい仕事に際し、一週間前に頭を黒く染め直しておいたから。

面接を無事通過、説明会に来てる中に茶髪は一人もいなかった。でも、揃った面子を眺め回しても「染め直しといてよかった!」ってな感慨はまったく湧いてこなかった。染めるべき箇所のない、もしくは今さらそんな、ってな年長者ばっかだったからだ。

ドライバーの使い方さえわかってりゃよく、狭いタクシーの中でほとんどの時間を過ごす、つまりはかなり楽勝な仕事で、一番の苦難はしっかり熟成された口臭との戦いかもしれない、と俺は思った。



 C&R社は街の中心部、どでかいビルの10階にある。そこに8時半には入んなきゃなんないから、日曜だってのに午前7時、朝メシなんて食ってる。三人で。 

 「どこに行くかはまだわからないんだ?」

言って彩子は奈美恵のほうを見た。で、ニターッ。

奈美恵は笑いもせず彩子のほうも見ず、ただひたすら食ってる。浅漬けキュウリ、白メシ、豆腐と油揚の味噌汁、白メシにのりたまかけてガツガツ、味噌汁、細切り昆布の佃煮、白メシ、味噌汁……順番にグルグル食ってる。

 「ああ。どんなおっさんと行くのかも、どんだけ遠くに行くのかも、全然。行ってみなきゃわかんない」

答えつつ俺も奈美恵を見る。俺に向かっては微笑んでくる。ね、大丈夫でしょ、とでも言いたげな顔。

 大丈夫なのはわかった。でもやっぱ、いきなり俺にだけ微笑まれたりするとドキッとする。思わず彩子の表情を伺う。ん?って顔で見つめ返される。で、何がどうなってんのかさっぱりわからんが、とりあえず本当に大丈夫なのだ、と再認識する。

 「明日の朝は卵ぐらい焼こうか」

 新しい仕事を記念してみたいに、夕べ彩子はそう言った。でも小高氏の話じゃ、実際に仕事をしてるより車に乗ってる時間のほうがずっと長いらしい。仕事に30分、車で一、二時間って感じに。

 「ほとんど車に乗ってるだけみたいだからいいわ」

それに彩子にとっちゃたまの日曜なのだ。本当は〈駅でパン〉でまったくかまわないぐらいで、彩子には寝てて欲しい。そのほうが俺にしたって気楽だ。でも彩子はそういうのを嫌う。いつも、どうせ昼寝するしさ、とか言って布団から行ってらっしゃいは絶対しない女なのだ。夕べもこう言った。

「無理に寝てるより〈眠くなった時に昼寝〉ってほうが体にもいいんだって。それにさ」

 「それに?」

 「きっとこの子に起こされちゃうって。こんな早くから寝ちゃってんだもん」

で、ニターッ。奈美恵を見た。20回以上、でも50回にはまだちょっと遠い、おそらく37回目ぐらいの、ニターッ。

 まったくマジでよう、と37回目ぐらいで俺は思った。何がそんなに嬉しいんだ? で、37回目ぐらいで実際にその言葉を口に出しそうになった。37回目ぐらいでぐっとこらえた。

もし、こらえ切れずに言っちまったらどうなるんだろう。現状維持以外ないとわかっていても、いや、わかってるからなおのこと、どうしてもそんなことを考えちまう。で、二人で風呂に入ってる時、頭の中でシミュレーションしてみた。

 彩子はマメな女じゃない。メールに返事がないなんてしょっちゅうだし、逆に例えばきょうみたいに何の連絡もなしに遅くなっても、自分からは絶対電話してきたりしない。そのへんは中学の同級生ってのが大きいんだろう。何もかもが対等なのだ。俺の下に彩子はなく、彩子の下に俺はいない。フィフティ・フィフティ。そんな雰囲気を、中学校の頃からなにげに漂わせてたプライドがおおってる。ソーヤが何したって、わたしは自分からは絶対ジタバタしたりしないから、ってな感じに。

てなわけできょうもとっくに帰宅してるはずの、そして俺より先に変な女を迎えてるはずの彩子からの電話はない。でもそれも彩子の性格がどうの以前の、当然の結果なのかもしれない。きょうは手伝いの、ちっぽけとは言え一応はギグの日で、となれば打ち上げで遅くなっても全然おかしくないんであり、そういうことがわかってる時、彩子は部屋でとっとと缶ビールを開けて録画してるアニメ番組を見てたり、シャワーを浴びてペディキュアの汚れを取ってたりと自分が好きなように過ごすだけの話で、間違っても「何やってんの?」とかは言ってこないのだ。

奈美恵の来訪にしたって、奈美恵が彩子を怒らすようなかたちで上がり込もうとするわけがない。なんつっても奈美恵は、なぜだか知らないが俺と彩子という男女が暮らす部屋に、どーしても! 仮りの住まいを定めねばならないのだから。俺と彩子の暮らしをぶち壊すような登場の仕方は絶対してないはずなのだ。

 つうことはやっぱ俺は、ただのほほんと部屋に帰ればいいってことなんだろう。何も悪いことなんてしてないよって顔でただのほほーんと、いつも通りのツラ下げて。


 でもやっぱ俺は、ドアの前で一瞬、鍵穴の前に鍵を差す直前で固まった。やっぱインターフォンか? いるのがわかってんのに鍵なんて不自然か?

 どうすれば自然で、どうすれば不自然なのかがわからない。

 信じて……奈美恵の声が耳の奥で言った。

そうだ、大丈夫だ。信じろ。

鍵をポケットに突っ込み、俺はインターフォンを押した。

 「はいはいはいはーい」

 やたら明るい声。ドアがあく。すぐに目に入った。あの黒のショートブーツ。

 「ただいまぁ」

 どんな顔をしたもんやら、と俯きかけたところで思い出した。そうだ、のほほーん、だ。俺は気合を入れてのほほんしようとした。結果、バカみたいなニヤケ顔になった。でも彩子は俺の顔なんてどうでもいいみたいだ。

 「なーんだ、打ち上げじゃなかったんだね」

  とか言ってやたらニコニコしてる。

 靴紐をほどくためにしゃがんだ。そのままどっかり尻餅をついちまいそうだ。そんぐらいホッとした。奈美恵は一切、俺の名前を出さずに上がり込んだのだ。紐をほどいて立ち上がり、彩子の笑みにしっかり安心した顔を向け、俺は訊いた。

 「誰?」

 よくもまあいけしゃーしゃーと!ではある。がしかし、俺は自分を讃えた。ドギマギして変なことを言うなんてつまづきをやらかしたらお終いのところを、あっさり超えたからだ。体じゅうの強ばりがすっと抜けていった。マジでよくぞ言ったぞ、爽也。立派な嘘つきだ。でも油断は禁物だった。

 「誰って?」

  彩子が怪訝顔で俺を見たのだ。

もう一度、俺はしゃがんだ。いつもなら紐なんて気にせずに無理くり脱ぐところを、丁寧にほどいていく。脳みそがグルグル回る――まさかあいつ、彩子に気づかれないように上がり込んじまったのか?一体どんな女だ。でもまさか、いくら物事に無頓着な彩子だってこの靴ぐらい目に入ってるだろう。

いつもの何倍も時間をかけて靴を脱いで立ち上がり、

「誰ってって……あれ」

顎を黒ブーツに向けた。

 今度はしっかりした反応があった。彩子は俺の背中に覆い被さってきてこう言ったのだ。

 「そうそう、そうなの!びっくりするよぉ」

耳に彩子の息がかかった。やっと左足も抜けた。靴を脇に置くと、

 「早く早く!」

 彩子は俺の腕をつかんで立ち上がらせた。そのまま腕を取られて居間に引っ張られた。

がっつり、いた。なんと、寝てやがる。

奈美恵は彩子の布団でしっかり寝ていた。革ジャンを着たまま、タオルケットをかけられて。

 「可愛いでしょう」

最近はあまり聞かないような、でろーんとした声で彩子が言った。がぁいーでしょおぉぉぉ。ま、それは確かだ。でも彩子が言うとは思わなかった。

 奈美恵が寝てる頭の上あたりにギターを下ろし、彩子がああ言うんだから大丈夫だろう、寝てる奈美恵の顔をまじまじ見つめた。どうしたらこんなとこで寝てられんだ? どうしたら彩子にあんな声を出させられるんだ? お前は一体どんな役を演じてんだ?

 彩子が隣りにしゃがみこんで小声で言った。

 「ソーちゃんだと思ってドアを開けたらその子が立っててさ、びーっくり。こんなに可愛いかったら上げないじゃいらんないじゃん?ね?大丈夫でしょソーちゃんも、この子がいても」

 うっとり、奈美恵を見つめる。

 何がどうなってんのか、判明度クリアに0%。しかしとにかく、彩子は奈美恵がいることをとてつもなく喜んでるってのは確かで、現状維持にさえ心がけていれば俺は平和、彩子はハッピー、奈美恵も安心ってことらしい。現状維持とは、まずは下手なことを口にしないこと。

 「うん、まあ、いいんじゃない」

  曖昧に俺は答えた。

 「食べ物もとりあえずさ、わたしたちと一緒でいいよね?」

 「別に、いいと思うな」

 「ほーんと、びっくり!」

声を上げ、彩子はあわてて口に手をあてた。俺は口元に指をあてて、シーッ、と笑った。彩子は微笑み返し、それから俺が帰ってくるまでやってたらしい料理の準備に戻っていった。何の歌だか知らないが鼻歌をふふふーん、とやりながら。

俺は向き直り、奈美恵の顔に念じた。なんであんなに彩子がご機嫌なのか、とっとと起きて教えろ!でもかなりの爆睡だ。起きそうな気配はまったくない。

 「もうできるからねぇ、うがいして顔洗って来てねぇ」

 いつものセリフを背中に聞いて、俺は立ち上がった。CDラックに向かって『LAウーマン』を引っ張り出した。約束だったから。

デッキに入れて〈がぁいー奈美恵ちゃん〉の眠りを邪魔しないボリュームでかける。こんなボリュームじゃかえって怒って起きるかもしれないと思ったが、びくともしない。

あと7年……。俺からしたらあと5年。そのあいだに21世紀の今までばっちりロック史に残ってるアルバムを6枚も発表したドアーズ、つうかジム・モリソン。俺はうがいでもして顔でも洗い、現状維持に務めるだけの人生だ。



「うん、バッチリ!」

奈美恵は即答した。

その確信はどこから来るんだ? まじまじ奈美恵を見つめた。

 「ぼんやりとでも、彩子さんとの結婚を考えることあるんでしょ。それ嘘じゃないんでしょ」

 「ああ。そうできれば一番いいと思ってはいる」

 「なら大丈夫。バッチリだよ」

 彩子とのことを俺が真面目に考えてるなら大丈夫。逆に言えば、彩子とのことを真面目に考えられないような、俺がそんないい加減なやつならダメ。なんだか、うまく誘導されてるような気がする。でも考えてみれば、そんな根拠ゆえのバッチリなら、俺がここで、ちょっと最近うまくいってないんだよな、とか言ったら他を当たらなきゃならなくなるってことで、となると、これは誘導でもなんでもない。

とにかく……将来のことを少しは考えてる、俺と彩子がその程度にうまく行ってるなら、もう一人、わたしが入り込んでも大丈夫!

つうことなのだ。

何が、どう、大丈夫なんだか。どんなバッチリなんだか。見てみたい気がしないでもない。しかし、もし万が一、バッチリじゃなかったら、彩子との暮らしが終わっちまう可能性は否めない。

とんでもない話だ。乗るべきじゃない。実は最近ちょっとうまくいってないんだ、とか言い直しといたほうがいい。絶対、いい。これ以上関わるな、こんな女と。理性らしきものは俺にずっとそう言ってる。でも。

それって本当に理性なのか? そういうのを理性ってのか? 別の俺が鋭い目で俺を見つめる。ビビッてるだけだろ? 理性的に考えてみりゃとか、普通に判断すりゃとか、そんなことでダメにすんなよ、ソーヤ。

何がダメになるのか、漠然と頭に浮かんでくる。感性。手応えのある毎日。正直さ。人生の広がり。蓄積されるほどに倍増する豊かさ。世界とのつながり。研ぎ澄まされてく洞察力。宇宙に飛んでく俺の魂。自由な魂。もしここでビビったら、全部ダメにしちまうような気がする。

 「信じて」

 奈美恵が言った。

奈美恵は、わたしを信じて、と言ったんだろう。でも俺には、俺自身を信じろ、と聞こえた。

俺自身の感性、正直さ、存在理由を信じろ!

そっから広がっていくであろう何かを信じろ!

積もるほどに膨らんでく何かの存在を信じろ!

自分の中で研ぎ澄まされていく何かを信じろ!

いつかぶっ飛んでいく魂があることを信じろ!

信じろ! 信じろ! 信じろ! 信じろ!

即答できないなんて終わってんな。そう思った。

 「30分でいいんだな」立ち読みでもしてりゃすぐだ。

 「よかったぁ!」

 奈美恵が笑いながら、俺の手元に手を伸ばしてきた。手でも握ろうってのかと思ったら、俺の手から空き缶を取っただけだった。

自分の飲んだ分と合わせて三個の空き缶を持って立ち上がり、奈美恵は自販のほうへすたすた行った。缶入れの中にトントントン、空き缶が落ちた。戻ってきて俺の前で立ち止まった。

「じゃあ、そういうことで!」

おどけたお辞儀をすると奈美恵は歩いていった。細い舗道を抜けて駅のほうに。

ん?奈美恵の消えた角を俺は見つめた。

知ってんのか?俺たちのアパート。

やっぱ、と俺は思った。下調べはあったのだ。



 特別なシフトの日じゃないから、彩子は7時ちょい過ぎにアパートに帰ってくる。俺と再会する前から彩子が住んでたその部屋の家賃は4万5000円。なのに6畳相当の部屋の他に台所も八畳ぐらいで、かなり広い。しかも風呂とトイレはちゃんと分かれてる。でも、だからギグ・ホールがあるような市街地からは電車で20分、降りて徒歩20、いや、25分。築35年。3月11日も4月7日も、もう終わった……と思うぐらい揺れて皿やらグラスやら半分以上が割れ、CDと本の並ぶ棚もぶっ倒れてそこらじゅう物の海と化したのに、建物自体はけろっと平気だった。

派遣仕事にあぶれたある日、外がうるさくて目を覚ましたら大家がアパートを見上げて、「ちょっとぐらい、どっか壊れてないかねえ」とか何とか、そんなようなことを浅黄色の作業服姿の人に言っていた。

まるで壊れてるほうがいいような言い方だったんで、彩子が帰ってきてから、なんであんなこと言ってたんだべ、と話したら彩子は言った。

 「ヒビが入ったとか言うと地震保険が降りるんだって。患者さんが言ってた。今回の地震で壊れたとかそういうのはほら、ものすごくたくさんの件数をこなさなきゃなんないじゃない?だからいちいち厳密な審査はしないんだって。だからちょっとしたヒビぐらいでけっこうもらえる家もあるんだって。でもここ全然壊れてないじゃん? それでだね」

 彩子の勤めてる整形外科はとんでもなく忙しい。ってことは患者がとんでもなく多いってことで、ってことは患者その人のことや患者が話すこと、面白い話がいくらでもあるってことだ。それをぜんぶ次から次へと、彩子は俺に話す。帰ってきてまずは俺に足の裏を踏ませながら。その時の口の滑らかさ、表現力、さらにはアクセントの正確さ、タレント気取りの女子アナなんか足元にも及ばない。

昼間の忙しさで火照った頭のよく言えば冷却作業、悪く言えば鬱憤晴らしって話の聞き役で足踏み屋の俺が、きょうは何の予告もなしに帰ってない。これは彩子にしてみたら、少なくとも2センチの口とんがりには相当する。つうことは30分は口利いてやんないの刑ってとこだ。しかも2センチとんがりのところに現れるのが奈美恵。やっぱとんでもないことをしてしまったのでしょうか、わたくしは。てめえのたましーがどうとか粋がって。

彩子の汗で湿った足の感触が急にいとおしくなってきた。よくそこまでスラスラベラベラ言葉がつながってくもんだ、といつも感心しちまう声が早くも懐かしく思えてくる。

いやいやいや、俺は信じたのだ。あいつ――奈美恵を。

いや、俺を、だ。俺自身の感性を信じることにしたのだ。

だから今、こうして本屋で立ち読みなんてしてる。ひと文字も頭に入ってこねえけど。

さあて……雑誌を棚に戻し、だだっ広い本屋の出口に向かった。次の電車に乗れば「30分後」にアパートに着く。









 「ソーヤさんのこと、ちょっとだけトミから聞いてたんですよ」


 奈美恵は言った。

 「ジャニス・ジョプリンとかジミヘンとか、ふるーいロックが好きな、ちょっと根暗っぽい人なんだけど、ギターはかなり弾けるほうだから正式メンバーが決まるまで手伝ってもらおうと思ってる、そういう人だって」

 「根暗かよ」

 「あいつにしたら、ちょっとでも物思う人間なら誰でも根暗だから」

 「弾ける〈ほう〉かよ」

 「時々なんだか上から目線言葉になっちゃうんだけど、間違ってるだけだから、言葉使いを」

 「ジミヘン全然好きじゃねえし」

 「あいつはそのへん、ほとんど聞かないからごっちゃになってんの。死んじゃった人のはなんか苦手みたい」

 「暗いってか」

 「まあ、そんなとこなのかな」

 マジ、ロックってのがぜんぜんわかってないやつだ。

 「わかった」

 「え?」

 「ジャニスとドアーズのCD-Rを作ってやろう」彩子の超のろいパソコンで。

 「無駄だと思うけど」

 「そんで何も変わらなけりゃ、これからはもっと好きに弾かせてもらう。キーボードも替えさせる」

 ロックってのを教えてやるのだ。王道じゃなく真髄を。

 「わあ、それ無理かも。トミは誰かを切るなんて絶対できないから」

なんて言い交わしながら俺が少々気になってたのは、富岡がそんなふうに言ったんだったら、なんで奈美恵の質問は「チープ・スリルとジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのファースト、どっち?」じゃなかったのか、ってことだった。でもまあ今さらだ。今はもっと気になってることがあるし。

 「ところで何つうか、いや、別に全然かまわないんですけどね、富岡と同窓生のきみがなんで、俺なんかとこんなとこに座ってんだ?」

 奈美恵はほんの少し口をつぐみ、それからゆっくり言った。

 「一ヶ月ぐらい。正確には32日、いたんだよね」

ぜんぜん答えになってない。

「いた?何の話だよ」

 「トミの部屋に、約一ヶ月」

 こいつと富岡?俺はまじまじ奈美恵を見つめた。こいつとあいつ?全然ピンとこない。

 奈美恵がはっとしたように目を見開き、ひらひら手を振った。

 「でもそういうんじゃないよ。同棲ってのかな、彼女もいたしさ」

 「カノジョ?」

 「うん、美晴ちゃん」

 「ミハルちゃん?」

奈美恵が富岡の部屋にいたってことより、こっちのほうがよっぽど驚きだ。彼女と暮らしてる部屋に別の女を一ヶ月も、ってか彼女同居の男の部屋に一ヶ月も。

 「二人とももっといていいって言ってくれたんだけど、ひと月が限度だったな」

 限度だった。だった……ってことは。なるほど。これが答えだ。なんで俺なんかとこんなとこに? に対する。

 無理だ!

 もし奈美恵が俺の高校の同窓生だとしても、もし実際そうだったにしても、どんな事情があるか知らないが、いやどんな事情があってもだ、彩子との部屋にこいつを泊まらせるなんて、そんなのはきっかり100パー無理、不可能中の不可能だ。部屋に上げることさえまずありえない。

でも富岡は泊めた。ミハルちゃんとやらもOKだった。

不可能じゃないのか?同棲してる男女の部屋に男がもう一人女を招き入れるなんてことが不可能じゃなくなっちゃうような、そんな可能性がどこかに潜んでるのか?ミハルちゃんとやらにさえひと月も、さらにはもっといていいよなんて言わせちまうような、そんぐらいの事情を奈美恵が抱えてるってことなのか?

 つうことはもしかしたらその事情は彩子さえも納得させられちまうのか?

いやいやいや、俺は聞かない。絶対聞かない。聞いちゃダメだ。

とか思ってるのに俺の目はしっかり奈美恵を見てる。話の続きを促してる。

 「家がさ、すっごい遠いんだよねぇ」

 奈美恵は話しだした。苦笑い混じりに軽く愚痴った、そんな感じで。

すっごい遠い?富岡の出身地はそれほど遠くないはずだ。正確なとこは忘れちまったが、ちょっと根性出せばチャリでも行けるようなとこの出身だったはずだ。

何かを数えるようにぽつりぽつり、奈美恵は続けた。

「いくら帰りたくても、どんな飛行機や船に乗って、どんなに時間をかけても帰れない、そんぐらい遠くなっちゃった」

いったいどんだけ最低な家族とどんだけ最悪ないさかいがあったのやら、だ。きっとその最低最悪な話を聞いて、富岡とミハルちゃんはこいつをひと月も留め置かずにはいられなかったんだろう。それを聞けば俺も「じゃあ俺んちに来れば?」とか言っちまうのかもしれない。彩子まで同情しちまって「当分ここにいたら?」なんて言いだすのかもしれない。

でもやっぱダメだ。彩子まで同情するなんてどう考えてもありえない。聞いちゃダメだ。

 「遠くなりにけり……か」

ぼんやり無意味な言葉を口にし、それきり俺は向かいの花壇を見つめた。

 「ソーヤさんも彼女と暮らしてんだよね」

 なんとも淋しげな声で奈美恵が言った。

来ましたよ……俺は自分に言い聞かせた。この笑みは「彼女と暮らしてんだからわたしが泊めてなんて言っても無駄なんだよね」の笑みじゃねえぞ。俺がどんなふうに根負けしていくのか、その入口の笑みだぞ。でもそれにしてもだ、俺、富岡にそんなことまでしゃべってたか? 彩子と暮らしてるなんてことまで。……しゃべっちまったんだろう。

 「一応、帰ればいるね」そこにきみは、どうやって上がり込もうってのか。

 「その人と結婚しようとか思ってんだよね?」

 「まあ、ぼんやり考えたりはするけどね」でも、きみを連れてったりしたらきっとそれはなくなる。

 「じゃあ大丈夫だ」

何が。

 「名前は?」

 「名前?」

 言っちまっていいんだろうか。

 「ソーヤさんの彼女の名前」

 ま、いいか。

 「ああ……彩子」

 「さいこさんのさいは色彩の彩?」

お。一発で「彩」が出てきた。

 「そうそう」

 気分よく俺は頷いた。野菜の菜? とか言われると、自分のことでもないのになぜかムカつくのだ。バッカじゃねえの、と思う。菜子じゃまるで漬物だ。

 「じゃあさ……」

 奈美恵は一瞬目を伏せ、再び視線を上げるとじっと俺を見た。

 「わたしがね、彩子さんを訪ねる感じでまずソーヤさんちに行くの」

 「きみが彩子を訪ねる?」

 「うん。そんでわたしより1時間……ううん30分でいいや、そんぐらい遅れて帰ってきてもらうとバッチリなんだけど」

言って奈美恵はニコッと微笑んだ。ごく自然な笑み。お願い!や、そうして!を1グラムも含んでない、軽くて爽やかな笑み。そうするといいことあるよ!わたしたちにとって!ってな笑み。彩子も入れた〈わたしたち〉ってことか?

 「バッチリ、ね」

言って俺は奈美恵の目を見た。














「そんじゃさ」

奈美恵が言った。

 「三枚目までってことは、ソーヤさん、ソフト・パレードからあとはダメなんだ」

 『ソフト・パレード』はドアーズの4枚目のスタジオ・レコーディング・アルバムだ。そのあともう2枚、ドアーズは『モリソン・ホテル』と『LAウーマン』というアルバムをスタジオで作ってる。この3枚について、俺はあんまり言及したくない。「モリソン・ホテルは好きだよ」

 「ソフト・パレードとLAウーマンはダメなの?」

 「ソフト・パレードも、まあ、嫌いじゃない」

 「LAウーマンはダメなんだ……?」

 「最後まで聞いてらんない」

 「えー、なんで?」

 「ジムが弱ってて、バンドに引きづられてる。どうしてもそう感じる」

 「そんなに弱ってるかな? LAウーマンのジム」

 「俺には、そう聞こえる」

 「で、最後まで聞けない……?」

 「聞けない」

 そうかなって顔のまま、奈美恵は正面を見てコーヒーをズルズル、それからため息みたいに呟いた。「かわいそ」

 「可哀想?」

 「だってもう7年で死んじゃうんだよ」

 「7年?」

 「わたしハタチなんだ」

 「ああ……。ん?」

 ジム・モリソンは27才で死んでる。で、奈美恵はハタチ。だからあと7年?

 なんでだ?どうしてそこを重ねる?話の流れ的には「7年」じゃなくて「数ヶ月」だろ。『LAウーマン』の録音後、数ヶ月で死んでるんだから。こういうの、わかってやんなくちゃなんねえのか? それともあれか? こいつはジムのみならずジャニスやジミヘンが死んだ27才で自分も死のうと思ってんのか?

一つの言葉が頭に浮かんだ。

エキセントリック。

一番苦手な言葉だ。

もしこいつがそういうタイプの、つまり、わたしちょっとぶっ飛んでるけど、それってわたしの素晴らしいところなんだから、みんなこんなわたしをしっかり受けとめてね、なんてな単なる自意識過剰の勘違い女なら俺は無理だ。付き合えない。退散だ。

 「なに重ねてんだよ。わけわかんねえよ」俺は言った。

 「え?」

 奈美恵は俺の声で我に返ったみたいだった。

 「27才で死ぬつもりなのか?」

 「え?そんなこと思ったこともないよ、ぜっんぜん!」

 「だったらなんであと7年なんだよ」

言って俺はコーヒーをズルズルやった。あったかいコーヒーが喉に気持ちいい。タバコが吸いたくなった。でもそれは体のことだ。気持ち的には別に吸いたくない。

 「ああ……」

 奈美恵がぼんやり頷いた。

 「なんか可哀想になっちゃって。可哀想だと思ったら急に重なっちゃって。って、わけわかんないか。でもさ、だからLAウーマンも今度からはもうちょっと優しい気持ちで聞いたげて。わたしに免じて」

 何が「だから」なのか。何が「わたしに免じて」なのか。さっぱりわからない。でもまあ『LAウーマン』だって、聞いてるのが辛いってだけで、別に嫌いなアルバムじゃない。

 「わかった」

言って俺は息をついた。

 「よかった」

奈美恵が笑った。

 でも、優しい気持ちでCDを聞く?これもよくわからない。

 古い街並みを行く大道芸人たち――怪力の大男、踊る小人、ジャグリングするピエロ顔の男、曲芸師のコンビ、ラッパの眼鏡老人、その後ろの壁に、なにげにファーストアルバム『ザ・ドアーズ』のポスター。これが『ストレンジ・デイズ』のジャケットだ。

 とにかくヤバいのが聞きたい。ゾクゾクしたい。じゃなきゃロックじゃねえし。高校一年の頃はいつもそう思っていた。だから「攻撃的」「過激」「危険」「耽美的」、そんな言葉で表現される「ドアーズ」という名のバンドの存在はちょっと気になってた。ボーカルがドラッグで死んでるってなヤバさもかなりそそった。でも高校生だ、買えるCDは限られてた。ハナッから「当たり」とわかってるのにしか、どうしても手が伸びない。ラジオでもほとんどかからないドアーズには中々手が出なかった。

てな俺の背中を、ほれ!と押したのが古本屋の中古CDコーナーだった。いつもなら俺の大嫌いなベスト盤しかない棚に『ストレンジ・デイズ』があったのだ。邦題『まぼろしの世界』、1350円。わかった。俺は深く顎を引いた。これを買えってこった。こいつは運命だ。

ついにドアーズを手に入れた。わくわくしつつヘッドフォンを装着、聴いた。わかんなかった。ぜっんぜん、わかんなかった。

 全体を怪しげに覆うオルガン。ペラペラピロピロ芯のないギター。ロックってよりはジャズなドラム。ロックっちゅうにはちょっと弱いだろ、ってなボーカル。そんで何より、ヘヴィーに押してこないサウンド。これのどこが攻撃的なんだ? 過激なんだ? 危険だっつんだ? まあ、耽美的ってのはわかる。でもぜんぜんロックっぽくねえ。

 買って二、三度チャレンジ、でも結局あきらめた。ダメだ、やっぱわかんね。でも高校生にとって一枚のアルバムは「ひと財産」だ。少なくとも俺にとってはそうだった。「わかんね」の一言じゃ片付けきれない。しかも相手は前々から気になってたドアーズだ。こんなはずはない。半月以上放ったらかしにした「大道芸人たち」を、俺は再びデッキに装填した。最後のチャレンジだ。とにかくもう一回、最後まで聞く。これでダメだったら終わりだ。

ヘッドフォン装着、机に突っ伏した。

三十五分後、灯りを消した部屋の中、デッキのPLAYを再び押すために椅子から立ち上がった。

その三十五分後、また立ち上がった。PLAYボタンを押して床にうつ伏せて目を閉じた。

さらに三十五分後、起き上がってまたPLAYを押し、今度は仰向けに大の字になった。

四回目を聞き終ってやっと部屋の灯りをつけた。

わかった。ロックっぽくなくて当然だ。これはロックじゃないんだから。

ドアーズなんだから。

ジム・モリソンというボーカリストと、彼の魂をそれぞれの楽器で表現する三人の男たち、それがドアーズだった。そんなドアーズには、パンクやヘヴィメタみたいな「ヘヴィーに押してくるサウンド」なんてありえない。時代的に一緒なサイケデリック・サウンドのバンドともぜんぜん違う。ドアーズはどんなサウンドも、目指してはいないのだ。だから、素晴しいメロディーばっかだが、メロディーだけでうっとりさせようなんて、そんな目論見もどこにも見当たらない。サウンドだけじゃない。歌詞に込めたメッセージを聞いてくれなんてのもない。もしかしたらあるのかもしんないが、英語だからよくわかんねえし、でもわかんなくてもぜんぜん問題ないし、ぼちぼち理解できる歌詞からは、大げさなメッセージなんてぜんぜん発してない。

ドアーズは、メロディーと歌詞だけではでき上がっていなかった。自分たちをそれだけで、作り上げようとしてなかった。もっと独自のもの――ジム・モリソンという存在とその魂で、ドアーズはできてた。そんな感触を素直に受け入れるためには、俺の場合、半月という消化期間が必要だったのだ。そう俺は理解した。初めてドアーズを聞いてから半月たってやっと、ジム・モリソンを受け入れる準備が俺の中にでき上がったのだ。そしていったん彼らを受け入れてしまったら、もうこんなふうにしか思えなく、俺はなっていた。――これがロックだ。こういうのこそが、ロックなのだ。あとは、ロックみたいなだけだ。

そんな『ストレンジ・デイズ』との出会いのあと、俺は彼らのファースト・アルバムを聞いた。彼らの代表作でもあるファースト・アルバム『ザ・ドアーズ』は、たとえ「ブレーク・オン・スルー」なんてロックそのもののような曲で始まってても、「ソウル・キッチン」なんてブルースがロックに突入していく瞬間みたいな曲がなにげに混じってても、「ハートに火をつけて」なんてロック史のみならず音楽史にまで残るような名曲が入ってても、「ジ・エンド」という衝撃的な曲で締めくくられてても、そんな曲のてんこ盛りで全体の完成度がどんだけパーフェクトでも、俺の耳にはどうしても、〈かなりすごいバンドが作った普通な成り立ちのロック・アルバム〉としか聞こえなかった。

 

 つうようなことを全部ここで語ってやってもいい。でもやっぱ面倒だ。

 「ジャニスのアルバムはほとんど好きだし、ドアーズも三枚目までは同じぐらい好きなんだけどな」

 とだけ俺は言った。

 「好きなんだ、けど?」

 奈美恵が眉間にしわを寄せた。

 「これまで聞いた中でストレンジ・デイズは別格、一生変わらないナンバー・ワンなんだわ」

 「ナンバー・ワン?」

 「ああ。ナンバー・ワン」

ギターを背中からはずし、空の缶を振りながら俺は立ち上がった。

 「もう一本、どう」

 「おごってくれるんだ……?」

 「同じのでいいよな?」

奈美恵が頷いたんで俺は15メートルぐらい戻って、ブラック缶を二個買い、Tシャツの裾に乗せてベンチに戻った。

 「今度は熱いの飲むの?」

 「見てたら飲みたくなった」

 「ふーん」

 口元を変に歪め奈美恵は笑った。

完全に小馬鹿にされた。無視して缶を開けた。

交差する側の信号が黄色になった時、奈美恵が言った。

 「どっか行くの? それともすぐに帰んなきゃ?」

 前の信号に目を移し、答えた。

 「いや、なーんも」

なーんも、か。よく言うわ。でも確かになーんもだ。彩子より遅くなったりしなければいいんであって、それまで俺は、なーんも、だ。別に、カノジョもなーんもいない、なんて言ってるわけじゃないんだから問題ない。でもそう言った自分にちょっとイヤな気分になった。

 「あ……」

 小さい声を発して奈美恵が小走りに駆けだした。飲み物の自販の前で止まる。

 「おごったげる。ぜんぶ入り?それともブラック?」

 のんびり追いついて立ち止まった。

 「じゃあ、ブラック」

 ポケットから直接引っ張り出した小銭を、奈美恵はスリットにカチャカチャ入れていった。やたら十円玉だ。ガッタン……自販が音を立てる。こっちに尻を向けたまま、はい、奈美恵が缶を突き出してきた。サンキュ。缶を握った、ところで、アヂッ!ベシャッと音を立て、缶が地面に転がった。

引き続き十円玉を投入してた奈美恵が振り向いた。

「どおしたの……」

 カチャカチャ続けながらきょとんと俺を見た。俺は中指と親指の先で缶を持ち上げた。驚いたのはこっちだ。

 「ホットかよ」

 空いてるほうの手でTシャツの裾をつまみ上げ、そこに缶を落とした。缶の熱が腹に触らないようにTシャツをさらに前に引っぱる。奈美恵がけろっと言った。

 「冷たいのがよかった?」

 「つうか……」

 こんだけ暑けりゃ普通アイスだと思うっての。

ん? って顔で奈美恵は俺を見る。あくまでけろっと。

何も言えなくなった。こんだけ暑けりゃ普通……とか思って、そう思うのが当然で、だからそれは完璧な主張なのだと思った自分が急に恥ずかしくなったのだ。

普通って何? 奈美恵の顔がそう言ってるふうに見えた。

 「いや、いい」

 俺はTシャツの裾をブラブラさせた。

ガタン……。はい。奈美恵が新しい缶を俺のTシャツに落とした。

 「ブラックじゃないけど」

 「いいよ。冷まして飲む」

 二つの缶が乗ったTシャツの裾を、俺は奈美恵に突き出した。

 「わたしが飲みたいんだって。こっち」

 奈美恵が熱いほうの缶を取った。

 「ああ……」

 正直ホッとして俺は冷たい缶を持ってプルトップを引き、グッと一気に喉に流し込んだ。ああ、普通でいい。マジそう思った。特にこんな日は。鼻血野郎だし。

奈美恵は、俺が熱くて落とした缶を両手で握り締めて頬に当て、ああ……とゆっくり息をつき、目を閉じた。ちょっと普通じゃない。何つうか、ロックが香ってくる。

 頬に缶を当てたまま奈美恵が歩きだした。逆さU字の金属ポールをのあいだから細い路地に入ってく。ビルとビルのあいだに二つのベンチと高さ50センチ、幅1メートル、奥行30センチぐらいの小さな花壇が道の両脇に二個づつあるだけの休憩スペースがあった。真ん中を肘掛状の鉄パイプで区切ってるベンチの一つに奈美恵は座った。鉄パイプを挟んで俺も座った。彩子はまだまだ働いてる。病院を急ぎ足でバタバタしながら。

 「缶コーヒーはここのっきゃ飲まないんだ」

 両手で缶を包んで前かがみになり、コーヒーをすすりすすりしつつそう言った彼女は、まるで真冬の朝の情景からコピペでもされてきたみたいだった。

 「ふうん……」

 何てメーカーだ?缶を見た。菜果園、すか。

ベンチに落ち着いて見る奈美恵の髪は、歩いてる時よりさらに黒々として見えた。自分もそうなってるっつうに俺は思う。こんなに黒い髪を見たのはいつ以来だろう。ものすげえ新鮮。目が吸い寄せられる。

 彩子の髪はブロンドで乾いてる。たまに肩のあたりでつんつん静電気ではねてる。そんなところが同い年なのに無性に可愛く見えて、なんか笑えてくる時がある。今目の前にある黒い髪はぜんぜん笑えない。笑えなくて、触りたくなる。どっちもどっちで、それぞれにいい。

 「ねえ、どっち?」

急に奈美恵がこっちを見た。目がマジだ。俺が何を考えてたのか、わかったのか?嘘だろ。

 「チープ・スリルは嫌い?ドアーズはファーストよりやっぱりセカンドなの?」

 それかよ。あせって損した。

 「こだわるねえ」

 「ちょっとね、自分でもなかなかいい質問だと思うし」

 「なんでその二枚なんだよ」

 「この二枚よりいいのなんてないじゃん。そのへんソーヤさんならわかってるかもと思って。でもやっぱりストレンジ・デイズ?」

 「つうか……」

 「つうか?」

 「奈美恵ちゃんはドアーズ、ファーストから順番通りに聞いたんだな」

 「ちゃんはやめてよ。ナミでいいって。……ドアーズはそうだね順番通り」

 「俺も、もし順番通りに聞いてたらストレンジ・デイズよりファーストだったかもしんないけどな」

交番の小さな建物を左に見ながら入っていった公園は、あっち半分だけ芝生になっていた。何か理由があってそうなってるんだろう。どうでもいいが。ジージャンを脱いでTシャツ一枚の俺の横を、女は革ジャンを着て歩いてる。ぜんぜん暑そうにしてない。八の字に開いた額ははっとするぐらい真っ白で、そこだけ別の空気に包まれてる。ふいに、でかいため息が出た。

 「おっきいため息……。どうしたの?」女が言った。

 「いや、なんだ……」

俺の顔を、ちょっと頬を歪めて女は覗き込んだ。

 「きみはサイケデリック・バルーンズだけを見に来たの? きょう」

 俺の質問を聞くと、女はすっと前を見た。

 「サイキック・プルーンズ」

 「サイキック?」

 「ソーヤさんの手伝ったバンドはサイキック・プルーンズ。で、わたしは奈美恵。奈落の美しさに恵まれた奈美恵。……いくら手伝いでもバンド名ぐらい覚えたげたら?」

やっぱ違ってた。何か微妙に違ってるような気はしてたのだ。でもこれは富岡が悪い。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」や「アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア」なんて演るバンドがサイキックなわけがない。そんなぜんぜんつながらいないものを覚えてられるわけがないのだ。人間の記憶なんてそんなもんだ。響きが似てただけでも上等だ。

で、こいつは、奈美恵。

奈落って感じじゃぜんぜんねえけど。でもとりあえずは、ジュリアだのシャインだのフラワーだのってんじゃなくてよかった。マジで。

シャインとフラワーってのは高校の時の同級生に実在した名前だ。シャインは紗音、フラワーは風羅和。マジ気の毒、みんなそう言ってたんだが本人たちはそれほど気にしてなくて、二重にびっくりだった。

フクロウ顔の「シャイン」。よもぎ頭の「フラワー」。ストーンズとビートルズをやる「サイキック・ブルーズ」。なんでこんな時代に生まれちまったのやらと思わなくもない。

てなことはともかく、俺は未解決問題を再提出した。

「奈美恵さんはきょう、サイキック・ブルーズだけを見に来たんすか?」

 「だから……プルーン。サイキック・プルーンズ」

 「超自然現象の健康食品かよ」

 「精神的果実だってさ。だったらもっとわかりやすい英語あるじゃんって言ったんだけどさ。ソウルフルーツとかすればソウルフルとフルーツがダブってかっちょいいし。でももう決めちゃったからって、トミ――富岡」

 「やっぱ富岡の知り合いか」

 「トミってチャラく見えるんだけどさ、けっこうあれで頑固なんだよね。でもまあいいやつだから、バンド名ぐらい覚えたげて。お願いします」

言って奈美恵は両手を合わせてペコリ頭を下げた。まるで身内だ。

 「つって、さっきはバカにしてたよな、打ち上げの予約」

 「バカにしたってか、なんか寂しくって。だってまるでサラリーマンなんだもん。でもまあそれだって、いいやつだってことなんだけどね」

 「いいやつはいいやつなんだろうけどな。でもやけにかばうんだな」

 「テレビで歌ってるのをロックだと思ってるようなのばっかでさ、そんなクラスの中では気の利いた存在だったのよ、あれでも」

 「なるほど」

ちょっと見、まったく噛み合わなそうな二人の接点に俺は納得、頷いた。富岡と同級生なら俺より二コ下、ハタチだ。

 「それが打ち上げの予約だなんてさ、まあトミなら言いそうだけど、かつての戦友としては、あーあって感じなわけですよ」

奈美恵は空をあおいだ。なんとはなし俺もそうした。毎日お祭りみたいに人で溢れかえってたキャンパスを思い出しながら。

 「大学が悪いんだわ」

 「大学が?」

「二年しかいなかったけど、じゃあ行くぞーとかって酒ばっか飲まされてたわ。予約しとくのが下級生の役目でな。あんたらより下級生なら未成年だろっつの」

 見上げた先は街路樹で隠れていた。ここはでかいケヤキの並木道なのだ。秋になるとこの鬱蒼とした緑の下に、ジャズやらロックやら和太鼓やら弾き語りやら尺八やらクラシックやら、あらゆる音楽が満ち溢れる。

 奈美恵が言った。「まるで社会人の予備校だ」

 そんな一面に染まり過ぎるのが富岡タイプ、自由さだけに染まり過ぎるのが俺タイプ。てな気質はロックの捉え方にも出てて、素直に社会人への道を歩む富岡はロックを音楽の1ジャンルとしか思ってない。広がらない1ジャンルだ。だからあんな選曲になる。イメージにもこだわるからあんなバンド名にしちまう。サイキックなんて名乗ったらピンク・レディでもやるべきだ、ってな発想にはならない。そのほうがよっぽど女子高生の見本にもなるのに。

 俺からしたら富岡なんて「音楽学校ロック科」の生徒に過ぎない。でもこいつにとっては大事な友達なんだろう……とか思いながら大通りの信号待ち、俺はゆっくり息をついた。



 別につきあってやってもよかったか? 富岡ってのもあれでけっこういいやつには違いないし、いやいや、やっぱな……と口をとがらせながら、左膝の前に右足、右膝の前に左足、ぎくしゃく足を出してゆっくり階段を上り、つうかあっちだ、あっちこそ語り合いたかった、と黒づくめニューヨークパンク女の顔を思い浮かべたところで、ギグ・ホールの穴ぐらから陽射しの下に出た。

まだ5月。なのに暑いったらない。5月でこれなら7月には40度、八月には50度だ。なんてことはないだろうがとにかく暑い。ジージャンなんて着たまま歩いてたらまず89パーセント流血だ。

記憶にある限り、小学生のころから俺は鼻血野郎だった。最低でも月に一回は流血。マジ悲しい人生だ。そんな人生を送ってると切実に思う。頭、顔面、腕、足、とにかく鼻の穴以外の場所からならどんなに流血してても恥ずかしいなんて思ったりはしない。回りもガーゼだ縛れだ止血だと、何だかんだ真摯に対応してくれる。なのになぜ鼻血は恥ずかしいのか。回りも「はい、ティッシュ」ぐらいのもんで、なぜそんなに冷淡なのか。同じ流血だ。鼻腔内から可哀想に血が流れてるのだ。ダラダラいつまでも止まんないなんてことだってあるのだ。それってけっこう悲しいんだぞ。すげえ切ねえんだぞ。なんで「恥ずかしがることないよ」ぐらい言ってくれないんだ?「ほら頭を低くして横になって!誰か!誰かティッシュ!」って感じに対応してくれないんだ?世の中は。

思ってるだけじゃ進展がない。で、一度彩子に言ってみた。なんで鼻血だとそうなんだよ、と。答える声は明るかった。「だぁーって鼻血だもん!」

 何も言い返せなかった。まあな、鼻血だもんな。で、思った。とにかくポケティーでも持って歩くこった。

てなわけで悲しき鼻血野郎はきょうもギターケースにポケットティッシュを入れてる。……入ってんだろうな。

ギグ・ホール入口の日陰に戻り、ギターを背中から下ろした。ギターケースのポケットをまさぐった。そうしてるあいだにも背中はどんどん熱くなってくる。あんだよな。ごそごそやってたら頭上から声がした。「打ち上げの予約だって!」

 その声は、と顔を上げたら、思った通りの顔が俺を見下ろしていた。

 「ああ……。出んじゃなかったのかよ?」

ポケティーは見つからない。まあいい。立ち上がってジージャンを脱ぎ、またしゃがんだ。ギターケースにジージャンの袖を縛りつける。作業中に声がした。

 「出るって何に?」

ジージャンをがっちり縛りつけてギターを背負い、立ち上がった。目線の高さが逆転した。見下ろして俺は言った。「きょうは見にきただけか」

女はけろっとした顔で俺を見上げた。「うん、そう」

 「あ、そ」軽く答えながら、うろたえていた。なんか困る。俺の目の前にこうして再びこの女がいることが、なんかヤバい。何に困って、何がヤバいんだかハッキリしないが、でも困る。ヤバい。

 「うん」 あっけらかん、屈託のない顔を俺に向け、女が子供みたいに頷いた。短く、見つめ合う感じになった。ヤバい。

 「行こか」 女が言って、

「ああ……」 俺は答え、並んで歩きだした。

ずっと脳みその中で彩子の顔が揺れてる。今朝、病院に向かう彼女に行ってらっしゃいを言い、じゃあソーヤも頑張ってきてね、と言われた時の顔だ。



彩子はロックなんてぜんぜん知らない。ドアーズやジャニスはもちろん、知り合った頃は禁九郎やストーンズさえ知らなかった。でも部屋では何をかけてもうるさがったりせず、たいがい面白がって聞いてる。今じゃドアーズの「ジ・エンド」をかけると、前に見たDVDのジムをマネて踊ったりもする。

俺や俺に付随する諸々をまんま素直に受け入れてくれる彩子とだから一緒にいられる。俺の派遣仕事の稼ぎにしても、そんなもんだよね。別にわたしが稼げてるからいいし。デキちゃったらちょっと違ってくるけどねぇぇぇぇ。そんな感じ。

でもたまに物足りなくなる。なんか違うような気分になる。そんな時の彩子はぜんぜん知らない女だ。そんなふうにしか見えなくなっちまうのだ。

なんでそんなに明るいんだよ。なんでそんなに素直なんだよ。なに料理なんかしてんだよ。掃除なんかしてんじゃねえよ。つまんねえことばっか次から次にしゃべりやがって。なんで俺はこんな女と一緒にいるんだ?

でも、そんなことを思った次の瞬間にはどうしようもなく彩子が欲しくなる。体だけじゃなく思考回路のスペース全部、感情全部、自分のものにしたくなる。そして彩子は表情や言葉や態度で、たっぷり全部くれる。

でもまた気がつくと物足りなくなってる。彩子が洗濯物をたたんでたり、食器を洗ってたり、ギターを膝に乗っけてそんなのを見ながら思ってる――こんな毎日になに満足してんだ? だからいつまでたってもダメなんだろうが。「俺にしかなれない俺」になれねえんだろうが。

何かが足りない。グッとくる何かに心も体も全部支配されて、背中を押されて、胸から湧き上がってくる欲求にギューギュー締めつけられながら生きてたい。その先にある「俺にしかなりえない俺」になりたい。正真正銘の「これが俺だ」って言い切れる俺になるためだけに生きてたい。新しいテレビもぴったりの靴もギブソンもグレッチもグラフィック・イコライザーも、そんなものは何もいらない。もっと肝心の何かをくれ!

なんで彩子はそう思わないんだ。なんでこんなままでいいって笑ってられる。なんでこんな誰にでもできる薄っぺらな、何の重みも深みもない、こんなのは俺に言わせたらただの遊びだ、ふわふわ浮かんでるだけの雲だ、そんな毎日の中でなんで笑ってられんだ? 彩子は自分にしかやれないことをやりたいとか、そんなことはぜんぜん思わないのか?

今、隣りを歩いてる女は、わたしはわたしだから、わたしにしかなれないこんなわたしだから、そんな空気に包まれてる。その空気が醸すものに、今、俺はものすごくホッとしてる。そんな空気感、俺が勝手にでっち上げてるんだが。でも少なくともでっち上げさせてるのはこの女だ。