交差する側の信号が黄色になった時、奈美恵が言った。
「どっか行くの? それともすぐに帰んなきゃ?」
前の信号に目を移し、答えた。
「いや、なーんも」
なーんも、か。よく言うわ。でも確かになーんもだ。彩子より遅くなったりしなければいいんであって、それまで俺は、なーんも、だ。別に、カノジョもなーんもいない、なんて言ってるわけじゃないんだから問題ない。でもそう言った自分にちょっとイヤな気分になった。
「あ……」
小さい声を発して奈美恵が小走りに駆けだした。飲み物の自販の前で止まる。
「おごったげる。ぜんぶ入り?それともブラック?」
のんびり追いついて立ち止まった。
「じゃあ、ブラック」
ポケットから直接引っ張り出した小銭を、奈美恵はスリットにカチャカチャ入れていった。やたら十円玉だ。ガッタン……自販が音を立てる。こっちに尻を向けたまま、はい、奈美恵が缶を突き出してきた。サンキュ。缶を握った、ところで、アヂッ!ベシャッと音を立て、缶が地面に転がった。
引き続き十円玉を投入してた奈美恵が振り向いた。
「どおしたの……」
カチャカチャ続けながらきょとんと俺を見た。俺は中指と親指の先で缶を持ち上げた。驚いたのはこっちだ。
「ホットかよ」
空いてるほうの手でTシャツの裾をつまみ上げ、そこに缶を落とした。缶の熱が腹に触らないようにTシャツをさらに前に引っぱる。奈美恵がけろっと言った。
「冷たいのがよかった?」
「つうか……」
こんだけ暑けりゃ普通アイスだと思うっての。
ん? って顔で奈美恵は俺を見る。あくまでけろっと。
何も言えなくなった。こんだけ暑けりゃ普通……とか思って、そう思うのが当然で、だからそれは完璧な主張なのだと思った自分が急に恥ずかしくなったのだ。
普通って何? 奈美恵の顔がそう言ってるふうに見えた。
「いや、いい」
俺はTシャツの裾をブラブラさせた。
ガタン……。はい。奈美恵が新しい缶を俺のTシャツに落とした。
「ブラックじゃないけど」
「いいよ。冷まして飲む」
二つの缶が乗ったTシャツの裾を、俺は奈美恵に突き出した。
「わたしが飲みたいんだって。こっち」
奈美恵が熱いほうの缶を取った。
「ああ……」
正直ホッとして俺は冷たい缶を持ってプルトップを引き、グッと一気に喉に流し込んだ。ああ、普通でいい。マジそう思った。特にこんな日は。鼻血野郎だし。
奈美恵は、俺が熱くて落とした缶を両手で握り締めて頬に当て、ああ……とゆっくり息をつき、目を閉じた。ちょっと普通じゃない。何つうか、ロックが香ってくる。
頬に缶を当てたまま奈美恵が歩きだした。逆さU字の金属ポールをのあいだから細い路地に入ってく。ビルとビルのあいだに二つのベンチと高さ50センチ、幅1メートル、奥行30センチぐらいの小さな花壇が道の両脇に二個づつあるだけの休憩スペースがあった。真ん中を肘掛状の鉄パイプで区切ってるベンチの一つに奈美恵は座った。鉄パイプを挟んで俺も座った。彩子はまだまだ働いてる。病院を急ぎ足でバタバタしながら。
「缶コーヒーはここのっきゃ飲まないんだ」
両手で缶を包んで前かがみになり、コーヒーをすすりすすりしつつそう言った彼女は、まるで真冬の朝の情景からコピペでもされてきたみたいだった。
「ふうん……」
何てメーカーだ?缶を見た。菜果園、すか。
ベンチに落ち着いて見る奈美恵の髪は、歩いてる時よりさらに黒々として見えた。自分もそうなってるっつうに俺は思う。こんなに黒い髪を見たのはいつ以来だろう。ものすげえ新鮮。目が吸い寄せられる。
彩子の髪はブロンドで乾いてる。たまに肩のあたりでつんつん静電気ではねてる。そんなところが同い年なのに無性に可愛く見えて、なんか笑えてくる時がある。今目の前にある黒い髪はぜんぜん笑えない。笑えなくて、触りたくなる。どっちもどっちで、それぞれにいい。
「ねえ、どっち?」
急に奈美恵がこっちを見た。目がマジだ。俺が何を考えてたのか、わかったのか?嘘だろ。
「チープ・スリルは嫌い?ドアーズはファーストよりやっぱりセカンドなの?」
それかよ。あせって損した。
「こだわるねえ」
「ちょっとね、自分でもなかなかいい質問だと思うし」
「なんでその二枚なんだよ」
「この二枚よりいいのなんてないじゃん。そのへんソーヤさんならわかってるかもと思って。でもやっぱりストレンジ・デイズ?」
「つうか……」
「つうか?」
「奈美恵ちゃんはドアーズ、ファーストから順番通りに聞いたんだな」
「ちゃんはやめてよ。ナミでいいって。……ドアーズはそうだね順番通り」
「俺も、もし順番通りに聞いてたらストレンジ・デイズよりファーストだったかもしんないけどな」