小説「彼女と黒猫 in Strange Days」12 | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

彩子は風呂場の、いくらこすっても曇りの取れない鏡に向かって化粧を落としてる。そんな彩子の横顔に俺は言う――なんでそんなにご機嫌なんだよ、あの子を見て。

 へ?と彩子はこっちを向く。目元が白黒にデロデロだ――なんで? あの子を見てわたしがご機嫌じゃいけないの?

湯気が不穏な色に染まる。

いや、何つうかさ――俺は言葉に詰まる。

何つーか? ――彩子の口がとんがる。

何つうかぁ――やっぱ訊かなきゃよかった! 

無駄なシミュレーションに、でかいため息が出た。湯船に顔を伏せてフーッとその息を吐き出す。実際にはブクブクと。

次の瞬間、焦った。沈めた顔が上がらないのだ。彩子だ。な、何だっつんだ! 首を横に振った。ブハッ! やっと息をして叫んだ。

「死ぬっての!」

顔を近づけてきて彩子が言う。

「焦った? マジで焦ったでしょ、今」

笑う。

「でもさあ、マッジ可愛いよねー、あの子!」

 口を開きゃあこれだ。どんだけだ? どんだけあいつが気に入ったんだ?

 もうすぐ50回にはなろうとしてる彩子のニタつきを前に、さすがに俺は悟った。ニタついて当然の状況にあるからニタついてる、それだけの話なのだ。彩子にとっては。その状況は、俺も、ってか、きっと誰もがニタついて当然の状況なのに違いない。だから彩子は何ら屈託なくニタついてるのだ。その状況には誰も疑問も異論もはさめない。そんなことをしたら、〈ニタついて当然な状況〉は一瞬にして〈ニタついてんのが当然じゃない状況〉へと変貌しちまうのだ。崩壊だ。彩子が今いる世界の。

俺が彩子のニタつきに疑問を投げかけるってことはすなわち、彩子が今安穏と過ごしている〈気がつくとニタついてる、きわめて幸福な世界〉をぶっ壊すってことなのだ。

そんなことは断じてできない。奈美恵が安心してここにいて、彩子もきのうまで以上に幸福そうにここにいて、というこの均衡は決して崩せないのだ。もしその均衡が崩れたら、彩子は急転直下、怒りと混乱の魔物と化し、奈美恵は路上にはじき出され、俺の平和も大粉砕だ。GAIA9にやられた福島県民のように。

彩子のニタつきの原因がはっきりするまでは、絶対へたなことは言えない。現状維持あるのみ!今はそれが、俺の人生のすべてだ。



風呂から上がると俺はテレビ、彩子は鏡の前で化粧水ピタピタ、で、まだ10時にもなってない。でも明日は早い。じゃあ今夜は早めに……ってなムードに、奈美恵さえいなければなるところだよなあ、とか考えてたら彩子がテーブルを部屋の隅に寄せて俺の布団を敷き始めた。敷き終わるとテレビを消した。まさかやるの?と思う間もなく電気も消した。マジすか? 奈美恵の前で? 

マジ、奈美恵の前で、だった。つうか隣りの俺の布団で、彩子はいつものごとく、ストラト・ボディを駆使した最高なあれに突入しようとした。

奈美恵が半眼で立ち上がったのは、俺がゆっくり押し倒された時だった。

 「あらららら!」

 下着姿の彩子が、あわてて立ち上がった。

 「はいはいはい、トイレはこっちねぇ」

何がどうなってんだ?なんて悠長にかまえてる場合じゃないのかもしれない。俺は目の前の様子を見ながらそう思った。俺は思った以上に、とんでもないことをしちまったのかもしれない。

狂っちまったんだ……彩子。

俺がこんな、彩子とは正反対の風貌のちょっとイカしたロック系の、ほんのちょっとだけ若い女を部屋に送り込んじまったせいで、どこがどんなふうになんてことは心理学者でも精神科医でもないからわかるわけもないが、とにかく俺は、彩子のどこかを壊しちまったのだ。いまだ革ジャンを着たままの奈美恵の肩に手を添え、トイレに連れていく、そんな彩子の姿を見てたら顔がさーっと冷えた。血の気が引くってのは、このことだ。

いや……いやいや……いやいやいや!決めつけるのは早い。早いぞ、ソーヤ。あの目を見ろ。あれは狂った人間の目じゃない。

でもほんとに狂ってる人間ほど、まともっぽい目をしてるって言うぞ。第一いつも通りやろうとしてた、あれは何なんだ? 奈美恵の隣りでなんて、まともな人間にできるか?少なくとも、まともな状態の彩子ならしねえぞ。……やっぱおかしくなっちまったんだ。奈美恵の登場で――俺のせいで。

彩子はトイレの前にしゃがみこんで、奈美恵が出てくるのをニコニコ待っていた。そん時の顔を実際に見たわけじゃないが、奈美恵を連れて戻ってきた時の顔で、たぶんそんなふうだったんだろうと察せられた。奈美恵は半眼のまま、彩子にぺたぺたお尻を叩かれながら戻ってきて、再び従順に彩子の布団に入った。

 「やっぱ、明日早いし、わたしも何か疲れちゃったし、ね」

 彩子が、ごめんねって感じに顔をくにゃっとさせた。

 「だな。寝るか」

 俺だってとてもそんな気にはなれない。彩子の申し出にかなりホッとしつつそう答えた。ただ身体的に、俺は彩子と正反対の状態だ。全然疲れてなんかないし、頭なんて冴え冴えだ。

「もう一本だけもらうわ」

と俺はもぞもぞ布団を抜け出した。冷蔵庫から彩子が買い置きしてたハイボールの缶をもらう。シンクの上の電気をつけてハイライトに火をつける。ハイボールのプルタブを開ける。缶のハイボールは、どこにアルコールが含まれてんだか探したくなるぐらい、俺には薄かった。やっぱ今度、安いバーボンでも買っておこう。

布団に戻って横になったら、彩子の寝息が聞こえた。やがてそれはいびきのような響きをともなってきた。彩子のいびきなんて初めて聞く。これも〈奈美恵ショック〉のせいなのか?

 彩子はあっちを向いて、〈がぁいー奈美恵〉見守るようなかたちで寝てる。そんな彩子の背中を見てたら、何か妙な感じがしてきた。胸の中がムズムズ、チクチクしてきたのだ。

 何なんすか?これは。まさか、あれ、すか?でも、なんで?

それは「彩子が狂っちまった」っつう恐怖をやわらげてくれるものではあった。ではあったから、最悪の状態を考えてた俺を、ある意味ホッとさせてくれるムズムズで、チクチクではあった。でもそれはしっかり、確かな感覚をともなってムズムズしてて、チクチクしていた。

俺はそのムズムズやチクチクを、22年の人生の中で、何度か経験していた。彩子が他の同級生の男の話を楽しそうにしてる時とかに発生する、それはムズムズで、チクチクだった。一言で言えば嫉妬。

俺が奈美恵に嫉妬?俺は布団の中で喉のつばを、ごっくん、飲んだ。タカラヅカ、という言葉が頭に浮かんだ。

くだらない、と思いつつも、彩子の背中が俺に考えさせる。

奈美恵って。この女、宝塚のお姉さん、みたいな?なのか?男にじゃなくて女にモテモテの、女にばっか効く媚薬オーラをまき散らす、奈美恵は、可愛い系のニューヨークパンク型「宝塚のお姉さん」みたいな?つうか「妹」みたいな、なのか?で、「がぁいーでしょおぉ」?で、トロトロのニタニタ?

 嘘だろ。

こっち向いてくれ!俺は彩子の頭に念じた。そっち向いて寝てないで、こっち向いてくれ!目を開けて、やっぱソーちゃんがいいって言ってくれ!

富岡方面のことが頭に浮かんできた。

ミハルちゃん……富岡の同棲相手のミハルちゃんは「もっといていいよ」と言った、と奈美恵は言った。その言葉は、ミハルちゃんにも奈美恵に深く同情できる何かがあって、そんな同情が言わせたんだとばかり思っていた。でも、もしかして、ミハルちゃんは奈美恵に、マジでもっといて欲しかったのかもしんない。純粋に 「ずっとそばにいたくて」、だから 「もっといていいよ」 だったのかも、だ。そんなミハルちゃんの熱くなりようが、奈美恵から見て 「もう限界だった」……。だからひと月で富岡の家を出ざるをえなかったのだ。

だとしたら……

奈美恵の登場で傷つくのは実は彩子なんかじゃなくて俺?

マジすか?

 いやいやいやいやいやいやややややや、まあ落ち着け、爽也。彩子はいつも通りやろうとしたじゃないか。しかも彩子のほうからだ。さあやりましょうって感じに、彩子のほうから。

そうそうそうそう、そうだったじゃないか。考え過ぎだ。つうか、まさか、もしかして、一応いつも通り「儀式」としてやろうとしただけなんだろうか。でもやっぱわたしできない! もうソーちゃんとなんて。それでやめちまったんだろうか。

まぁさか。考え過ぎ考え過ぎ考え過ぎだ、爽也。つうかもう考えるな。いくら考えたって答えなんて出やしねえんだから。

とにかくあれだ。明日にでも奈美恵から聞くしかない。寝ろ寝ろ、爽也。明日から新しい仕事だろうが。

寝られるわきゃない。

おい、彩子の向こうに寝てる女! 彩子ならしっかり寝てるぞ。そろそろ教えろ。彩子どうなってんだよ。どうしちまったんだよ。狂ったりしてねえよな。急に同性愛の人になったんじゃねえよな。

等々、グダグダのループにはまってたらいつのまにか寝た。