闇は余計なことばっか考えさせるから怖い。こうして三人でメシなんて食ってると、不思議なぐらいすべてはオーライって感じだ。なんてわけがない。
こんなの普通に考えたら10日どころか、今こんな一瞬が存在してるだけで充分異常だ。今度電話が来たら富岡にも訊いてみるべ――なんでお前んとこはひと月ももったんだ?
「いやあ、幼ななじみみたいなもんすから」 とか、明るく笑うだけかもしんないが。
奈美恵がメシを食い終えた。箸を茶碗の上に置いて「ごちそうさまでした」、使ってた茶碗と箸を持って立ち上がる。彩子はニコニコしながらその様子を見てる、だけだったらよかった。奈美恵がごちそうさまを言ったその時だ、彩子はニコニコしながら言った。
「はーい、おいちかったでしゅかぁ? うーん、よかった!」
で、うんうんと無表情で頷いた奈美恵の頭を、いい子いい子って感じに撫でた。マジ凍りついた。やっぱ狂っちまったんだ。
でもこの俺がいつまでも固まっちゃいられない。つうか固まったりしちゃいかんのだ。彩子の言動はいたって自然でごく普通、って顔をしてなくちゃならない。でないと、どんな均衡がいつどんなふうに崩れるかわからない。とにかくあらゆる種類の疑念も驚きもまだ、事態の正体が判明するまでは、表現禁止だ。
台所に食器を置いただけで別に洗ったりすることもなく、奈美恵は俺たちがまだ食ってる居間のほうに戻ってくるとベランダの窓を開けた。太陽が真上に上がるときのうみたいにあっつくなる。でもやっぱりまだ5月、ひんやりした空気が部屋に入ってきた。ベランダの枠にもたれて隣りのパーマ屋の屋根を見下ろしながら、奈美恵がついに口を開いた。
「彩子さん、別に狂ったりしてないから」
話しかけられた瞬間、俺はギュッと緊張した。口を開いていいのか、黙ってたほうがいいのか、そこからしてわからない。すると奈美恵は続けた。「だから安心して。それから、わたしの言うことに返事はしないほうがいいみたい。彩子さんの前でわたしを見る時はただニコニコしてて。それぐらいなら大丈夫みたいだから」
言って奈美恵は微笑んだ。ちょっと悲しそうだった。
俺は、わかった、と頷こうとした自分をとっさにぐっと抑えこんだ。その代わりに目を細め、微笑み返した。まるで野良猫でも見つけた時みたいに。
そんな俺たちのやりとりを、彩子はなぜだかうんうん頷きながら見ていた。奈美恵の言葉が聞こえなかったわけがないのに、この反応はおかしい。まるで一人だけ別の空間にでもいるみたいだ。そんな彩子が、箸を動かすあいまにぽつんと言った。
「何てしようね、名前」
「名前?」
思わず聞き返しちまった。まずった……と思ったが、大丈夫、俺の疑問を特に気にもとめず、ちらっと俺を見てから奈美恵のほうを見やり、彩子は言った。
「あの子の名前」
あの子の、名前?
奈美恵の名前さえ、彩子はまだ知らないってことか?つうか、知らないんだったら訊きゃあいいだけの話で、何も俺たちが命名する必要なんてない。
彩子はぼんやりした目線を奈美恵のほうに向けてる。きっとマジで「あの子の名前」を考えてるんだろう。別にどこも狂ってない頭で。
つうことは何だ、彩子はマジで奈美恵をそういう存在だと思い込んでるってことだ。名前を付けてやんなくちゃならないような存在、だと。例えば捨て子、にしちゃでか過ぎるから、そう、記憶喪失の少女とか、そんな感じに。狂ってない頭で。
でもそれにしても何だ、彩子の奈美恵への接し方はどう見ても、赤ん坊を相手にしてるそれだ。記憶喪失の女の子を相手にしてるって感じじゃない。
いったい、きみは何つってこの部屋に上がり込んだんだ?とっととそのへんを聞かせていただきたい、きみは彩子にとってどんな存在の女なんだ? と、奈美恵に強く問い質したい気分が高まった。でもこっちからは話しかけられない、らしい。だったらそっちからとっとと教えやがれ! がつがつメシをかっこみながら思った。もうこれ食ったら出かけなくちゃなんねえんだぞ!
ずっと奈美恵のほうを見ていた彩子がふっと言った。
「ジェニファー、って感じでもないかな?」
横文字の名前か。一応、Jでつないどこう。
「ジャニス」
「アンジェリーナ」
別にJじゃなくてもいいようだ。
「シャインちゃん」
「真っ黒なシャインちゃん、いいかも!」
いやいや、よくない。早口で俺は続けた。
「ルーシー、サリー、パティ」
つうか、なんで横文字なんだ?そう思ったところで彩子が言った。
「ふかっちゃん」
「フカ、ちゃん?」
急に横文字じゃなくなった。
つうか、フカ?鮫?なんでいきなりそんなに可愛くなくなるんだ?でも彩子は言う。
「可愛くて、なんかこうモジモジしてて、でも態度はけっこうはっきりしてて、なんか深谷エリみたいじゃん」
女優の深谷エリに感じが似てる?で、フカちゃんじゃなくて、ふかっちゃん?なるほど。つうか、全然似てねえけど。どっちかっつうと柴原コウっつうか、それもちょっと違うが。
その時ふいに、外を向いたまま奈美恵が言った。
「ルーシー、サリー、パティだって。スヌーピーじゃん」
それを言うなら「ピーナツじゃん」だ。スヌーピーはタイトルじゃない。つうかよ……俺は奈美恵を睨んだ。そういうこっちゃなくて!お前が口にするべきは、どうして彩子がお前の名前を決めようとしてるのかってことだ。
お前は彩子にとって、どんな名無しの存在なんだ?記憶喪失か?捨て子の赤ん坊か?それともまさか何だ、あれか?仔猫にでも見えてるってのか?がぁいぃぃぃ仔猫ちゃんにでも。
仔猫ちゃんにでも……。
まじまじ彩子を見た。少しして見つめ返された。ニッと笑ってみせた。ぱっつんぱっつん、かなり変になった。でも俺の顔なんか全然気にしてない様子で彩子は言った。
「ね。ふかっちゃんじゃダメ? それともシャインちゃんのほうがいい?」
あわてて首を振った。それだけはダメだ。
「ふかっちゃん!いいってそれ!あいつはふかっちゃんだ!」
彩子が奈美恵を呼ぶたびに、あんなやつを思い出させられたんじゃたまんない。
「よかったねえ、ふかっちゃん!きみはきょうからふかっちゃんだ!」
言って彩子は、ベランダの奈美恵に向けて箸を突き出した。
もしそうだとすればすべてに合点がいく、がしかしとんでもないとしか言いようのない、そんな憶測が熱く俺を包んだ。
がぁいーでしょおぉ。トイレにはあららららとついてく。で、ニコニコ。さらには、おいちかったでしゅかぁ&なでなで。
奈美恵を仔猫に置き換えると、ほとんどすべての場面がゆったり穏やかに平和に、ぴったり収まる。
奈美恵がぼそっと言う。
「ジャニスのがよかったんだけどなぁ」
ってことは、何だ、そういうことなのか?
彩子には、奈美恵が猫に見えてんのか?
「猫?」
気がつくと奈美恵に向かって言っちまってた。やーばやば。あわててメシをかっこんだ。
「そうみたい」
奈美恵が横に立った俺を見上げ、言った。
「なんだか真っ黒の仔猫に見えてるみたいなんだよね、わたし」
マジかよ……。口から出かけた言葉をぐぐっと飲み込んで、俺は奈美恵に微笑みかけた。
「ふかっちゃん、か」
奈美恵がぼっと言った。
「じゃあ、きょうからわたしは深谷奈美恵だ」