小説「彼女と黒猫 in Strange Days」10 | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 彩子はマメな女じゃない。メールに返事がないなんてしょっちゅうだし、逆に例えばきょうみたいに何の連絡もなしに遅くなっても、自分からは絶対電話してきたりしない。そのへんは中学の同級生ってのが大きいんだろう。何もかもが対等なのだ。俺の下に彩子はなく、彩子の下に俺はいない。フィフティ・フィフティ。そんな雰囲気を、中学校の頃からなにげに漂わせてたプライドがおおってる。ソーヤが何したって、わたしは自分からは絶対ジタバタしたりしないから、ってな感じに。

てなわけできょうもとっくに帰宅してるはずの、そして俺より先に変な女を迎えてるはずの彩子からの電話はない。でもそれも彩子の性格がどうの以前の、当然の結果なのかもしれない。きょうは手伝いの、ちっぽけとは言え一応はギグの日で、となれば打ち上げで遅くなっても全然おかしくないんであり、そういうことがわかってる時、彩子は部屋でとっとと缶ビールを開けて録画してるアニメ番組を見てたり、シャワーを浴びてペディキュアの汚れを取ってたりと自分が好きなように過ごすだけの話で、間違っても「何やってんの?」とかは言ってこないのだ。

奈美恵の来訪にしたって、奈美恵が彩子を怒らすようなかたちで上がり込もうとするわけがない。なんつっても奈美恵は、なぜだか知らないが俺と彩子という男女が暮らす部屋に、どーしても! 仮りの住まいを定めねばならないのだから。俺と彩子の暮らしをぶち壊すような登場の仕方は絶対してないはずなのだ。

 つうことはやっぱ俺は、ただのほほんと部屋に帰ればいいってことなんだろう。何も悪いことなんてしてないよって顔でただのほほーんと、いつも通りのツラ下げて。


 でもやっぱ俺は、ドアの前で一瞬、鍵穴の前に鍵を差す直前で固まった。やっぱインターフォンか? いるのがわかってんのに鍵なんて不自然か?

 どうすれば自然で、どうすれば不自然なのかがわからない。

 信じて……奈美恵の声が耳の奥で言った。

そうだ、大丈夫だ。信じろ。

鍵をポケットに突っ込み、俺はインターフォンを押した。

 「はいはいはいはーい」

 やたら明るい声。ドアがあく。すぐに目に入った。あの黒のショートブーツ。

 「ただいまぁ」

 どんな顔をしたもんやら、と俯きかけたところで思い出した。そうだ、のほほーん、だ。俺は気合を入れてのほほんしようとした。結果、バカみたいなニヤケ顔になった。でも彩子は俺の顔なんてどうでもいいみたいだ。

 「なーんだ、打ち上げじゃなかったんだね」

  とか言ってやたらニコニコしてる。

 靴紐をほどくためにしゃがんだ。そのままどっかり尻餅をついちまいそうだ。そんぐらいホッとした。奈美恵は一切、俺の名前を出さずに上がり込んだのだ。紐をほどいて立ち上がり、彩子の笑みにしっかり安心した顔を向け、俺は訊いた。

 「誰?」

 よくもまあいけしゃーしゃーと!ではある。がしかし、俺は自分を讃えた。ドギマギして変なことを言うなんてつまづきをやらかしたらお終いのところを、あっさり超えたからだ。体じゅうの強ばりがすっと抜けていった。マジでよくぞ言ったぞ、爽也。立派な嘘つきだ。でも油断は禁物だった。

 「誰って?」

  彩子が怪訝顔で俺を見たのだ。

もう一度、俺はしゃがんだ。いつもなら紐なんて気にせずに無理くり脱ぐところを、丁寧にほどいていく。脳みそがグルグル回る――まさかあいつ、彩子に気づかれないように上がり込んじまったのか?一体どんな女だ。でもまさか、いくら物事に無頓着な彩子だってこの靴ぐらい目に入ってるだろう。

いつもの何倍も時間をかけて靴を脱いで立ち上がり、

「誰ってって……あれ」

顎を黒ブーツに向けた。

 今度はしっかりした反応があった。彩子は俺の背中に覆い被さってきてこう言ったのだ。

 「そうそう、そうなの!びっくりするよぉ」

耳に彩子の息がかかった。やっと左足も抜けた。靴を脇に置くと、

 「早く早く!」

 彩子は俺の腕をつかんで立ち上がらせた。そのまま腕を取られて居間に引っ張られた。

がっつり、いた。なんと、寝てやがる。

奈美恵は彩子の布団でしっかり寝ていた。革ジャンを着たまま、タオルケットをかけられて。

 「可愛いでしょう」

最近はあまり聞かないような、でろーんとした声で彩子が言った。がぁいーでしょおぉぉぉ。ま、それは確かだ。でも彩子が言うとは思わなかった。

 奈美恵が寝てる頭の上あたりにギターを下ろし、彩子がああ言うんだから大丈夫だろう、寝てる奈美恵の顔をまじまじ見つめた。どうしたらこんなとこで寝てられんだ? どうしたら彩子にあんな声を出させられるんだ? お前は一体どんな役を演じてんだ?

 彩子が隣りにしゃがみこんで小声で言った。

 「ソーちゃんだと思ってドアを開けたらその子が立っててさ、びーっくり。こんなに可愛いかったら上げないじゃいらんないじゃん?ね?大丈夫でしょソーちゃんも、この子がいても」

 うっとり、奈美恵を見つめる。

 何がどうなってんのか、判明度クリアに0%。しかしとにかく、彩子は奈美恵がいることをとてつもなく喜んでるってのは確かで、現状維持にさえ心がけていれば俺は平和、彩子はハッピー、奈美恵も安心ってことらしい。現状維持とは、まずは下手なことを口にしないこと。

 「うん、まあ、いいんじゃない」

  曖昧に俺は答えた。

 「食べ物もとりあえずさ、わたしたちと一緒でいいよね?」

 「別に、いいと思うな」

 「ほーんと、びっくり!」

声を上げ、彩子はあわてて口に手をあてた。俺は口元に指をあてて、シーッ、と笑った。彩子は微笑み返し、それから俺が帰ってくるまでやってたらしい料理の準備に戻っていった。何の歌だか知らないが鼻歌をふふふーん、とやりながら。

俺は向き直り、奈美恵の顔に念じた。なんであんなに彩子がご機嫌なのか、とっとと起きて教えろ!でもかなりの爆睡だ。起きそうな気配はまったくない。

 「もうできるからねぇ、うがいして顔洗って来てねぇ」

 いつものセリフを背中に聞いて、俺は立ち上がった。CDラックに向かって『LAウーマン』を引っ張り出した。約束だったから。

デッキに入れて〈がぁいー奈美恵ちゃん〉の眠りを邪魔しないボリュームでかける。こんなボリュームじゃかえって怒って起きるかもしれないと思ったが、びくともしない。

あと7年……。俺からしたらあと5年。そのあいだに21世紀の今までばっちりロック史に残ってるアルバムを6枚も発表したドアーズ、つうかジム・モリソン。俺はうがいでもして顔でも洗い、現状維持に務めるだけの人生だ。