小説「彼女と黒猫 in Strange Days」9 | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

「うん、バッチリ!」

奈美恵は即答した。

その確信はどこから来るんだ? まじまじ奈美恵を見つめた。

 「ぼんやりとでも、彩子さんとの結婚を考えることあるんでしょ。それ嘘じゃないんでしょ」

 「ああ。そうできれば一番いいと思ってはいる」

 「なら大丈夫。バッチリだよ」

 彩子とのことを俺が真面目に考えてるなら大丈夫。逆に言えば、彩子とのことを真面目に考えられないような、俺がそんないい加減なやつならダメ。なんだか、うまく誘導されてるような気がする。でも考えてみれば、そんな根拠ゆえのバッチリなら、俺がここで、ちょっと最近うまくいってないんだよな、とか言ったら他を当たらなきゃならなくなるってことで、となると、これは誘導でもなんでもない。

とにかく……将来のことを少しは考えてる、俺と彩子がその程度にうまく行ってるなら、もう一人、わたしが入り込んでも大丈夫!

つうことなのだ。

何が、どう、大丈夫なんだか。どんなバッチリなんだか。見てみたい気がしないでもない。しかし、もし万が一、バッチリじゃなかったら、彩子との暮らしが終わっちまう可能性は否めない。

とんでもない話だ。乗るべきじゃない。実は最近ちょっとうまくいってないんだ、とか言い直しといたほうがいい。絶対、いい。これ以上関わるな、こんな女と。理性らしきものは俺にずっとそう言ってる。でも。

それって本当に理性なのか? そういうのを理性ってのか? 別の俺が鋭い目で俺を見つめる。ビビッてるだけだろ? 理性的に考えてみりゃとか、普通に判断すりゃとか、そんなことでダメにすんなよ、ソーヤ。

何がダメになるのか、漠然と頭に浮かんでくる。感性。手応えのある毎日。正直さ。人生の広がり。蓄積されるほどに倍増する豊かさ。世界とのつながり。研ぎ澄まされてく洞察力。宇宙に飛んでく俺の魂。自由な魂。もしここでビビったら、全部ダメにしちまうような気がする。

 「信じて」

 奈美恵が言った。

奈美恵は、わたしを信じて、と言ったんだろう。でも俺には、俺自身を信じろ、と聞こえた。

俺自身の感性、正直さ、存在理由を信じろ!

そっから広がっていくであろう何かを信じろ!

積もるほどに膨らんでく何かの存在を信じろ!

自分の中で研ぎ澄まされていく何かを信じろ!

いつかぶっ飛んでいく魂があることを信じろ!

信じろ! 信じろ! 信じろ! 信じろ!

即答できないなんて終わってんな。そう思った。

 「30分でいいんだな」立ち読みでもしてりゃすぐだ。

 「よかったぁ!」

 奈美恵が笑いながら、俺の手元に手を伸ばしてきた。手でも握ろうってのかと思ったら、俺の手から空き缶を取っただけだった。

自分の飲んだ分と合わせて三個の空き缶を持って立ち上がり、奈美恵は自販のほうへすたすた行った。缶入れの中にトントントン、空き缶が落ちた。戻ってきて俺の前で立ち止まった。

「じゃあ、そういうことで!」

おどけたお辞儀をすると奈美恵は歩いていった。細い舗道を抜けて駅のほうに。

ん?奈美恵の消えた角を俺は見つめた。

知ってんのか?俺たちのアパート。

やっぱ、と俺は思った。下調べはあったのだ。



 特別なシフトの日じゃないから、彩子は7時ちょい過ぎにアパートに帰ってくる。俺と再会する前から彩子が住んでたその部屋の家賃は4万5000円。なのに6畳相当の部屋の他に台所も八畳ぐらいで、かなり広い。しかも風呂とトイレはちゃんと分かれてる。でも、だからギグ・ホールがあるような市街地からは電車で20分、降りて徒歩20、いや、25分。築35年。3月11日も4月7日も、もう終わった……と思うぐらい揺れて皿やらグラスやら半分以上が割れ、CDと本の並ぶ棚もぶっ倒れてそこらじゅう物の海と化したのに、建物自体はけろっと平気だった。

派遣仕事にあぶれたある日、外がうるさくて目を覚ましたら大家がアパートを見上げて、「ちょっとぐらい、どっか壊れてないかねえ」とか何とか、そんなようなことを浅黄色の作業服姿の人に言っていた。

まるで壊れてるほうがいいような言い方だったんで、彩子が帰ってきてから、なんであんなこと言ってたんだべ、と話したら彩子は言った。

 「ヒビが入ったとか言うと地震保険が降りるんだって。患者さんが言ってた。今回の地震で壊れたとかそういうのはほら、ものすごくたくさんの件数をこなさなきゃなんないじゃない?だからいちいち厳密な審査はしないんだって。だからちょっとしたヒビぐらいでけっこうもらえる家もあるんだって。でもここ全然壊れてないじゃん? それでだね」

 彩子の勤めてる整形外科はとんでもなく忙しい。ってことは患者がとんでもなく多いってことで、ってことは患者その人のことや患者が話すこと、面白い話がいくらでもあるってことだ。それをぜんぶ次から次へと、彩子は俺に話す。帰ってきてまずは俺に足の裏を踏ませながら。その時の口の滑らかさ、表現力、さらにはアクセントの正確さ、タレント気取りの女子アナなんか足元にも及ばない。

昼間の忙しさで火照った頭のよく言えば冷却作業、悪く言えば鬱憤晴らしって話の聞き役で足踏み屋の俺が、きょうは何の予告もなしに帰ってない。これは彩子にしてみたら、少なくとも2センチの口とんがりには相当する。つうことは30分は口利いてやんないの刑ってとこだ。しかも2センチとんがりのところに現れるのが奈美恵。やっぱとんでもないことをしてしまったのでしょうか、わたくしは。てめえのたましーがどうとか粋がって。

彩子の汗で湿った足の感触が急にいとおしくなってきた。よくそこまでスラスラベラベラ言葉がつながってくもんだ、といつも感心しちまう声が早くも懐かしく思えてくる。

いやいやいや、俺は信じたのだ。あいつ――奈美恵を。

いや、俺を、だ。俺自身の感性を信じることにしたのだ。

だから今、こうして本屋で立ち読みなんてしてる。ひと文字も頭に入ってこねえけど。

さあて……雑誌を棚に戻し、だだっ広い本屋の出口に向かった。次の電車に乗れば「30分後」にアパートに着く。