「ソーヤさんのこと、ちょっとだけトミから聞いてたんですよ」
奈美恵は言った。
「ジャニス・ジョプリンとかジミヘンとか、ふるーいロックが好きな、ちょっと根暗っぽい人なんだけど、ギターはかなり弾けるほうだから正式メンバーが決まるまで手伝ってもらおうと思ってる、そういう人だって」
「根暗かよ」
「あいつにしたら、ちょっとでも物思う人間なら誰でも根暗だから」
「弾ける〈ほう〉かよ」
「時々なんだか上から目線言葉になっちゃうんだけど、間違ってるだけだから、言葉使いを」
「ジミヘン全然好きじゃねえし」
「あいつはそのへん、ほとんど聞かないからごっちゃになってんの。死んじゃった人のはなんか苦手みたい」
「暗いってか」
「まあ、そんなとこなのかな」
マジ、ロックってのがぜんぜんわかってないやつだ。
「わかった」
「え?」
「ジャニスとドアーズのCD-Rを作ってやろう」彩子の超のろいパソコンで。
「無駄だと思うけど」
「そんで何も変わらなけりゃ、これからはもっと好きに弾かせてもらう。キーボードも替えさせる」
ロックってのを教えてやるのだ。王道じゃなく真髄を。
「わあ、それ無理かも。トミは誰かを切るなんて絶対できないから」
なんて言い交わしながら俺が少々気になってたのは、富岡がそんなふうに言ったんだったら、なんで奈美恵の質問は「チープ・スリルとジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのファースト、どっち?」じゃなかったのか、ってことだった。でもまあ今さらだ。今はもっと気になってることがあるし。
「ところで何つうか、いや、別に全然かまわないんですけどね、富岡と同窓生のきみがなんで、俺なんかとこんなとこに座ってんだ?」
奈美恵はほんの少し口をつぐみ、それからゆっくり言った。
「一ヶ月ぐらい。正確には32日、いたんだよね」
ぜんぜん答えになってない。
「いた?何の話だよ」
「トミの部屋に、約一ヶ月」
こいつと富岡?俺はまじまじ奈美恵を見つめた。こいつとあいつ?全然ピンとこない。
奈美恵がはっとしたように目を見開き、ひらひら手を振った。
「でもそういうんじゃないよ。同棲ってのかな、彼女もいたしさ」
「カノジョ?」
「うん、美晴ちゃん」
「ミハルちゃん?」
奈美恵が富岡の部屋にいたってことより、こっちのほうがよっぽど驚きだ。彼女と暮らしてる部屋に別の女を一ヶ月も、ってか彼女同居の男の部屋に一ヶ月も。
「二人とももっといていいって言ってくれたんだけど、ひと月が限度だったな」
限度だった。だった……ってことは。なるほど。これが答えだ。なんで俺なんかとこんなとこに? に対する。
無理だ!
もし奈美恵が俺の高校の同窓生だとしても、もし実際そうだったにしても、どんな事情があるか知らないが、いやどんな事情があってもだ、彩子との部屋にこいつを泊まらせるなんて、そんなのはきっかり100パー無理、不可能中の不可能だ。部屋に上げることさえまずありえない。
でも富岡は泊めた。ミハルちゃんとやらもOKだった。
不可能じゃないのか?同棲してる男女の部屋に男がもう一人女を招き入れるなんてことが不可能じゃなくなっちゃうような、そんな可能性がどこかに潜んでるのか?ミハルちゃんとやらにさえひと月も、さらにはもっといていいよなんて言わせちまうような、そんぐらいの事情を奈美恵が抱えてるってことなのか?
つうことはもしかしたらその事情は彩子さえも納得させられちまうのか?
いやいやいや、俺は聞かない。絶対聞かない。聞いちゃダメだ。
とか思ってるのに俺の目はしっかり奈美恵を見てる。話の続きを促してる。
「家がさ、すっごい遠いんだよねぇ」
奈美恵は話しだした。苦笑い混じりに軽く愚痴った、そんな感じで。
すっごい遠い?富岡の出身地はそれほど遠くないはずだ。正確なとこは忘れちまったが、ちょっと根性出せばチャリでも行けるようなとこの出身だったはずだ。
何かを数えるようにぽつりぽつり、奈美恵は続けた。
「いくら帰りたくても、どんな飛行機や船に乗って、どんなに時間をかけても帰れない、そんぐらい遠くなっちゃった」
いったいどんだけ最低な家族とどんだけ最悪ないさかいがあったのやら、だ。きっとその最低最悪な話を聞いて、富岡とミハルちゃんはこいつをひと月も留め置かずにはいられなかったんだろう。それを聞けば俺も「じゃあ俺んちに来れば?」とか言っちまうのかもしれない。彩子まで同情しちまって「当分ここにいたら?」なんて言いだすのかもしれない。
でもやっぱダメだ。彩子まで同情するなんてどう考えてもありえない。聞いちゃダメだ。
「遠くなりにけり……か」
ぼんやり無意味な言葉を口にし、それきり俺は向かいの花壇を見つめた。
「ソーヤさんも彼女と暮らしてんだよね」
なんとも淋しげな声で奈美恵が言った。
来ましたよ……俺は自分に言い聞かせた。この笑みは「彼女と暮らしてんだからわたしが泊めてなんて言っても無駄なんだよね」の笑みじゃねえぞ。俺がどんなふうに根負けしていくのか、その入口の笑みだぞ。でもそれにしてもだ、俺、富岡にそんなことまでしゃべってたか? 彩子と暮らしてるなんてことまで。……しゃべっちまったんだろう。
「一応、帰ればいるね」そこにきみは、どうやって上がり込もうってのか。
「その人と結婚しようとか思ってんだよね?」
「まあ、ぼんやり考えたりはするけどね」でも、きみを連れてったりしたらきっとそれはなくなる。
「じゃあ大丈夫だ」
何が。
「名前は?」
「名前?」
言っちまっていいんだろうか。
「ソーヤさんの彼女の名前」
ま、いいか。
「ああ……彩子」
「さいこさんのさいは色彩の彩?」
お。一発で「彩」が出てきた。
「そうそう」
気分よく俺は頷いた。野菜の菜? とか言われると、自分のことでもないのになぜかムカつくのだ。バッカじゃねえの、と思う。菜子じゃまるで漬物だ。
「じゃあさ……」
奈美恵は一瞬目を伏せ、再び視線を上げるとじっと俺を見た。
「わたしがね、彩子さんを訪ねる感じでまずソーヤさんちに行くの」
「きみが彩子を訪ねる?」
「うん。そんでわたしより1時間……ううん30分でいいや、そんぐらい遅れて帰ってきてもらうとバッチリなんだけど」
言って奈美恵はニコッと微笑んだ。ごく自然な笑み。お願い!や、そうして!を1グラムも含んでない、軽くて爽やかな笑み。そうするといいことあるよ!わたしたちにとって!ってな笑み。彩子も入れた〈わたしたち〉ってことか?
「バッチリ、ね」
言って俺は奈美恵の目を見た。