別につきあってやってもよかったか? 富岡ってのもあれでけっこういいやつには違いないし、いやいや、やっぱな……と口をとがらせながら、左膝の前に右足、右膝の前に左足、ぎくしゃく足を出してゆっくり階段を上り、つうかあっちだ、あっちこそ語り合いたかった、と黒づくめニューヨークパンク女の顔を思い浮かべたところで、ギグ・ホールの穴ぐらから陽射しの下に出た。
まだ5月。なのに暑いったらない。5月でこれなら7月には40度、八月には50度だ。なんてことはないだろうがとにかく暑い。ジージャンなんて着たまま歩いてたらまず89パーセント流血だ。
記憶にある限り、小学生のころから俺は鼻血野郎だった。最低でも月に一回は流血。マジ悲しい人生だ。そんな人生を送ってると切実に思う。頭、顔面、腕、足、とにかく鼻の穴以外の場所からならどんなに流血してても恥ずかしいなんて思ったりはしない。回りもガーゼだ縛れだ止血だと、何だかんだ真摯に対応してくれる。なのになぜ鼻血は恥ずかしいのか。回りも「はい、ティッシュ」ぐらいのもんで、なぜそんなに冷淡なのか。同じ流血だ。鼻腔内から可哀想に血が流れてるのだ。ダラダラいつまでも止まんないなんてことだってあるのだ。それってけっこう悲しいんだぞ。すげえ切ねえんだぞ。なんで「恥ずかしがることないよ」ぐらい言ってくれないんだ?「ほら頭を低くして横になって!誰か!誰かティッシュ!」って感じに対応してくれないんだ?世の中は。
思ってるだけじゃ進展がない。で、一度彩子に言ってみた。なんで鼻血だとそうなんだよ、と。答える声は明るかった。「だぁーって鼻血だもん!」
何も言い返せなかった。まあな、鼻血だもんな。で、思った。とにかくポケティーでも持って歩くこった。
てなわけで悲しき鼻血野郎はきょうもギターケースにポケットティッシュを入れてる。……入ってんだろうな。
ギグ・ホール入口の日陰に戻り、ギターを背中から下ろした。ギターケースのポケットをまさぐった。そうしてるあいだにも背中はどんどん熱くなってくる。あんだよな。ごそごそやってたら頭上から声がした。「打ち上げの予約だって!」
その声は、と顔を上げたら、思った通りの顔が俺を見下ろしていた。
「ああ……。出んじゃなかったのかよ?」
ポケティーは見つからない。まあいい。立ち上がってジージャンを脱ぎ、またしゃがんだ。ギターケースにジージャンの袖を縛りつける。作業中に声がした。
「出るって何に?」
ジージャンをがっちり縛りつけてギターを背負い、立ち上がった。目線の高さが逆転した。見下ろして俺は言った。「きょうは見にきただけか」
女はけろっとした顔で俺を見上げた。「うん、そう」
「あ、そ」軽く答えながら、うろたえていた。なんか困る。俺の目の前にこうして再びこの女がいることが、なんかヤバい。何に困って、何がヤバいんだかハッキリしないが、でも困る。ヤバい。
「うん」 あっけらかん、屈託のない顔を俺に向け、女が子供みたいに頷いた。短く、見つめ合う感じになった。ヤバい。
「行こか」 女が言って、
「ああ……」 俺は答え、並んで歩きだした。
ずっと脳みその中で彩子の顔が揺れてる。今朝、病院に向かう彼女に行ってらっしゃいを言い、じゃあソーヤも頑張ってきてね、と言われた時の顔だ。
彩子はロックなんてぜんぜん知らない。ドアーズやジャニスはもちろん、知り合った頃は禁九郎やストーンズさえ知らなかった。でも部屋では何をかけてもうるさがったりせず、たいがい面白がって聞いてる。今じゃドアーズの「ジ・エンド」をかけると、前に見たDVDのジムをマネて踊ったりもする。
俺や俺に付随する諸々をまんま素直に受け入れてくれる彩子とだから一緒にいられる。俺の派遣仕事の稼ぎにしても、そんなもんだよね。別にわたしが稼げてるからいいし。デキちゃったらちょっと違ってくるけどねぇぇぇぇ。そんな感じ。
でもたまに物足りなくなる。なんか違うような気分になる。そんな時の彩子はぜんぜん知らない女だ。そんなふうにしか見えなくなっちまうのだ。
なんでそんなに明るいんだよ。なんでそんなに素直なんだよ。なに料理なんかしてんだよ。掃除なんかしてんじゃねえよ。つまんねえことばっか次から次にしゃべりやがって。なんで俺はこんな女と一緒にいるんだ?
でも、そんなことを思った次の瞬間にはどうしようもなく彩子が欲しくなる。体だけじゃなく思考回路のスペース全部、感情全部、自分のものにしたくなる。そして彩子は表情や言葉や態度で、たっぷり全部くれる。
でもまた気がつくと物足りなくなってる。彩子が洗濯物をたたんでたり、食器を洗ってたり、ギターを膝に乗っけてそんなのを見ながら思ってる――こんな毎日になに満足してんだ? だからいつまでたってもダメなんだろうが。「俺にしかなれない俺」になれねえんだろうが。
何かが足りない。グッとくる何かに心も体も全部支配されて、背中を押されて、胸から湧き上がってくる欲求にギューギュー締めつけられながら生きてたい。その先にある「俺にしかなりえない俺」になりたい。正真正銘の「これが俺だ」って言い切れる俺になるためだけに生きてたい。新しいテレビもぴったりの靴もギブソンもグレッチもグラフィック・イコライザーも、そんなものは何もいらない。もっと肝心の何かをくれ!
なんで彩子はそう思わないんだ。なんでこんなままでいいって笑ってられる。なんでこんな誰にでもできる薄っぺらな、何の重みも深みもない、こんなのは俺に言わせたらただの遊びだ、ふわふわ浮かんでるだけの雲だ、そんな毎日の中でなんで笑ってられんだ? 彩子は自分にしかやれないことをやりたいとか、そんなことはぜんぜん思わないのか?
今、隣りを歩いてる女は、わたしはわたしだから、わたしにしかなれないこんなわたしだから、そんな空気に包まれてる。その空気が醸すものに、今、俺はものすごくホッとしてる。そんな空気感、俺が勝手にでっち上げてるんだが。でも少なくともでっち上げさせてるのはこの女だ。