一応、俺にも彩子って存在はある。中学の同級生で成人式の日、同窓会みたいな飲み会で五年ぶりに会った。そこからつきあいだし、そのうち別々にアパート借りてんのもあれだよねえ、となって俺が彩子の部屋に転がり込んだ。
今んところ、彩子が俺にとって最初で最後の女だ。あとは残念ながら、お酒にもお茶にも誘われたことはない。つまり俺はそういう、何と言うか、〈かろうじて彩子に相手にされた男〉なのだ。
とか言っても、もちろん彩子が最低ラインの女だとかってわけじゃない。美人とは言えないまでも充分に可愛いし、性格も明るい。俺の倍以上稼いでくるのに俺の派遣社員の稼ぎに文句なんて言わない。コンビニ弁当なんて昼だけで充分とか言って夜は毎日料理するし、そいつがかなり上手で旨い。そんで何より……ストラトキャスターな適度に貧弱なボディ。てなわけでもう完璧と言っていいぐらいの女なのだ。
そんな彩子に相手にされてる、どころか一緒に暮らしてるぐらいで、このまま行けば結婚? なんてぐらいだから俺も男としてそれなりなんだろうか。だとしたら、いきなり声をかけられたり、こんなふうに暗がりで見つめられたり、そんな状況は、「モテてる」と考えてもいいんだろうか。
だんだん暗がりの向こうに目をやる回数が多くなる。女はずっとこっちを見てる。マズい。物凄くいい気分だ。
とっくに「ルビー・チューズデイ」は終ってて、ボブ・ディランの武道館バージョン「ミスター・タンブリンマン」も二度目のサビに入ろうとしてる。俺はピックを握り直した。起きろ、グラモックス! 目覚めて楽しめ! つっても次は「アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア」で、そん次は「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」、ちなみにどっちもオリジナル・レコーディング・バージョン。どこまでもベタな選曲。やっぱきょうは無理か? グラモックス……。
結局グラモックスはその本領を発揮しなかった。しかし俺はひと仕事終えた職人さながら、まあ素人にはわかんめーがな、ってな少々渋めな満足感を胸に控え室に戻った。女はまるでずっとそこにいたかのような顔で、さっきと同じ場所――ベンチの隅、俺のギターケースのそば――に座って音楽雑誌のページをゆっくりめくってた。そうすることで、本日の出演者と思しき、どっからどう見ても高校生なのにしっかり煙をくゆらせてる4人の男子たちの視線を完全にシャットアウトしてるようだ。出番はまだまだ先なんだろう、彼女の仲間らしき人間はまだ一人も見えない。
「ずいッぶん無難な曲ばっかやってんだね」
俺が歩み寄ると女は雑誌を閉じて声をかけてきた。高校生たちの会話が一瞬やんだ。まずはお疲れさんだろ、と思ったが、まあ、ありきたりなやりとりなんてどうでもいい。だがしかしやっぱ、カッチーンとはくる。グラモックスをギターケースに突っ込みながら俺は言った。「借りもんだから」
「ギターが借り物だと選曲もあんなんなるの?」
シールドをギターケースに突っ込んだ。「俺が。きょうのこれは手伝い」
「まあ、そうなんだろうけどさ」
何だよ、知ってたのかよ。やっぱ富岡の友達だ。シールドをもう1本、エフェクターも突っ込んだ。きょうはディストーション1個。
「つまんないの。つまんな過ぎ」
「そこまで退屈なの聞かせたかよ」
やっぱこいつも使えばよかったか? スライドバーを軍手に包んで仕舞い、俺は女を見た。
「じゃなくて、借り物で一日生きちゃったんだと思って」
でかい瞳は別に、俺を責めてたりはしてない。ただ深い黒さをたたえて俺を見つめ返してるだけだ。俺はギターケースに両手を添え、屈んだ姿勢で女の顔をまじまじ見た。女はほんのちょっと顎を突き出して首を傾げた――借り物としての一日。きょうは確かにそんな一日で、他にどんな目的も認識もなかった。でもそのわりには楽しめた。こいつのおかげだ。
「だったら大丈夫」 俺は言った。「借り物にしては楽しめたし」
「そうなんだ……?」
「そうなんだな」
「そう言えば、けっこう楽しそうだったもんね」
「まあね」
「よかった、よかった」
「ありがとね」
「どういたしまして」
女は何をどんなふうに納得したのか知らないが、そう答えてニコッと笑った。俺はギターを背負って立ち上がった。その時、富岡たちがステージからガヤガヤ戻ってきた。高校生の喫煙者たちが出ていく。富岡たちが発するぬるい騒音で控え室が満たされてくる。俺は女に 「じゃ……」、富岡に 「お疲れさん!」 と手を上げドアに向かった。
「あ、ソーヤさん」富岡が駆け寄ってきて言う。「何つうか、一応打ち上げとか予約してんすけど」
お義理だけとも思えない、妙にあったかい声だった。でもその声にほだされて付き合えばどうなるかは目に見えてる。軽率なロック談義。そんな中で偉そうにしゃべる俺。軽薄と軽率の泥沼。それに第一、まだ酒には明るすぎる。さらには、彩子より遅くなるわけにはいかない。
「わり! ちょっと」 は手刀を切り、とっとと背を向けようとした。
富岡があわてる。「ソーヤさん! あの!」
何だよ、そんなに俺と飲みてえのか? でもなんで。意外な気分で振り向くと、富岡は微妙に目線を落としてる。「何つうか……その」
なにモジモジしてんだよ。気持ちわり。
「あれっす!」 やっと富岡が顔を上げた。「次やる曲決めたらまた電話しますんで。お疲れさんした!」
何だよ、それだけかよ。
「ああ、待ってるわ」
軽く手をかざし、俺はドアノブを回した。