まだ二人&一匹で暮らしていた頃だった。タロの体をなでていると、ポツポツと指に当たるものがあった。つまみ出してみると限りなく黒に近い茶色の微小な虫だった。こうやって生き物の体にまとわりついているということはあまり良くない虫に違いない。おそらくは血吸い虫。すなわち害虫。しかし、いったいこれは……。二人はその害虫らしきものを一体ティッシュに包み、踏切を渡ってすぐの所の薬局へ持参した。すると、
「ああ、今の若い人はノミなんて見たことないんだべねえ」
笑われた。
これが……。そうだったのか、と二人は早速、散布型ケムケム殺虫剤を購入した。
近くにも公園ならあるところを、わざわざ、歩けば30分近くかかる榴ヶ岡公園までタロを散歩に連れて行って子供たちに面白がられたのは、ケムケム大作戦を実行これせんがためだったのである。
しかしその日以降も、ノミは発生をやめなかった。そのうち一人減り、俺とタロだけ、昼間はずっとタロだけという状況になるとさらにやつらは増長した。とてもまともな気分では暮らせない仕儀と相成った。
引っ越すしかあんめえ。
俺にとっては、19才で突然一人暮らしを余儀なくされた時から数えて4度目の引越だった。業者に頼った引越は初めてだった。異常に給料が安いS印刷から、給料だけはかなりマシなRという写植屋に移っていて、ほんの少し金銭的に余裕が出来ていた。業者のトラックを送り出して、タクシーでタロと二人、新居へ向かった。
新居は、俺一人なら六畳ひと間で充分だったが、タロがいるので壁が薄いアパートというわけにはいかなかった。結果、公務員宿舎とか昔の国鉄アパートのような頑丈な2LDKのアパートになった。少々鳴いても大丈夫。
その部屋には物干しスペースがあった。言ってみればサンルーム。タロの発育に有益なことこの上なく、南向きの三畳分はあろうかというその場所が、タロの一番のお気に入りとなった。
が、サンルームの前はアパートの駐車場、そして車一台分ほどのスペースをおいて大家の家がどっかんと目の前に。
「猫ちゃん昼間ひとりで大丈夫なの~?」
と大家のおばあちゃんに笑顔で言われたのは、引っ越して3度目ぐらいに家賃を持っていった時だった。
そのあとにどんな言葉が続くのか、俺は一瞬身がまえた。が、聡明そうな面立ちに浮かぶさわやかな笑みは最後までそのままだった。
昼間、自分ちの玄関先から、あのおばあちゃんはどんな表情で、2階から外を眺めているタロを見上げていたんだろう。もはやまったく知る術もないけれど。
今日もいい天気だぜ、おやじ。