水色トタンに覆われた家賃3万円の一軒家に住んでいたころ俺は、歩いて5分の印刷屋で写植を打っていた。
今じゃ活字など、自宅でもパソコンでお手軽に調達できるようになった。が、20年前はそうはいかなかった。活字と言えば写植機で打ち出される(写し出される)写植文字しかなかったのだ――活版は明朝体とゴシック体ぐらいしかなかった。ワープロの文字なんて活字とは言えなかった。
写真植字。黒いガラス板に透明な文字がずらっと並んでいて、そこに光をパシャッと当てて印画紙に写す。色彩なしの文字写真。大きさは2mm弱から2.5cmまで。書体数知れず――ゴナ、ナール、隷書、楷書、行書、大蘭、ファン蘭、OKL、新聞明朝……いやいや、なつかしくてつい、すみません。
で、そんな写植のお仕事はとにかく残業残業の日々。夜遅くまでタロはひとり、留守番となった。
と、ここまで書いて私は背筋に冷たいものを感じるのだ。
実際に、今書いたようにすっかり昼間、家を空けっ放しにしていたら……。
自宅から5分の印刷屋は、ただでさえ低い印刷関係業務者の平均賃金よりもさらに低い給料で私たちをこき使っていた。他んとこなら20はもらえる所を15ぐらい。それじゃあ昼メシなどとても外食できるもんじゃない。おまけに近所には弁当屋もコンビにもなかった。となると手弁当である。実際ほとんどの人は弁当持参だった。
が、我が家は歩いて5分。当然の結果として、俺は昼ともなれば自宅へ。炊飯器を使うという習慣がなかった俺が何を食ってたかなんてすっかり忘れちまったけど。
で、その日もいつものようにデザイナーのKと一緒に俺は我が家へ向かったというわけだった。
そこでとんでもない光景が待ち受けていた。
睨み合い。
こちら側にどこぞのノラ猫のしっぽ&背中。
そして向こう側には黒チビ。
タロである。
壁同様の水色トタンで作られた塀と縁側サッシのあいだ、50cmほどの庭とも言えないそのすき間で、白昼の睨み合いが決行されていたのだ。
その瞬間のタロの目つきはいまだに忘れない。
その目には自分と同種の生き物を見つめる認識はなったくなかった。
「いったいナニなんだ、あんたは……?」――What are you?である。
いきり立つ以前に、相手がナニなのかがわからない。
怯えるにもその根拠がない。
そんな目つき。混じりけなしのキョトン。
今にして思えば、その「キョトン」がタロを救っていた。
逃げたりしてたらもう二度とタロは家へ戻ってこれなかったろうから。
俺はあわててダッシュし、タロを抱きかかえた。
相手の猫がどっちにどう逃げたか、まったく記憶にない。
窓も、もちろん玄関にも鍵はかかっていた。
つまりはこういうことらしかった。
その朝、俺が、どうら行きますかあ、と家を出る時に、タロは完全にこっちの目を盗んで外へ出た、と。
昼食に戻るという習慣がもしなかったら……、考えたくもない。
ただ、後日、これとはまったく逆、というか戻る習慣ゆえの事件も発生している。
昼に戻って玄関を開けた瞬間、シャッ!とタロが飛び出してきたのだ。
あ!と駆け出してもタロも一応は猫、とても追いつけるもんじゃない。玄関から右に飛び出し、あっという間に家の裏に回っていってしまった。
が、ほんの2、3秒後、猛ダッシュで玄関の左のほうから現れた黒い物体。
そう。家の周りを一周して戻ってきたのである。
ホッ、としたのもつかの間、タロは俺とKの目の前ですばやく方向転換、隣りの家の軒下に。
這いつくばっても入れない低い軒下。あちゃー、だ。
がしかし、Kは知っていた。
いつも腰にジャラジャラとカギ束をぶら下げていたK、カギ束を腰から外して軒下へ向かってジャラジャラ鳴らし始めた。
暗闇の奥でその音に興味を示す緑の瞳。
それが警戒しつつ実にゆっくり、こちらへ近づいてくる。
そして充分に近づいた所で、むんず!
捕獲されたタロはキョトン。
これだから……。まったく憎めない。
ちなみに、捕獲された黒チビの右目の上にはかすかに擦り傷が。
2・3秒の我が家一周のあいだにつけたらしい。
ベロベロベロベロ舐めたったさ。
俺のツバが、ずっとタロの特効薬だった。
外界がいとしいタロなのだった