ムサイやつ② | 愛と平和の弾薬庫

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 金はいいもんだとか、素晴しいとか、そんなことを言ってるからといって、別に俺はそれを、金を、手に入れたいだけ手に入れ、思う存分、好き勝手にそれを、金を使っているというわけじゃない。力がなくても、たいした知恵がなくても、すばしっこさや貫禄がなくてもある程度それを、金を手に入れておけば世の中のどうにか端っこぐらいには俺たちは存在できるのだ、こんな楽なシステムはないじゃないかと言いたいだけだ。

 そう。俺がいる場所は世の中のどっちかというと端っこのほう。いや、どっちかどころか、かなり端っこ、どん詰まりに近い。それでもすずめの涙程度の金は手に入れることができて、それでなんとか生きていけているというわけだ。

 満足はしていない。おおいに不満足だと言っていい。あれもこれも買えないし、あっちにもこっちにも自由には出没できないし、出入りできない。

 ラクダよりは楽だ、というだけのことだ。

 何ゆえ、そんなことになっているのか。何の才能もないからだ。特に、努力、継続に関する才能がない。三ヶ月で入れ替わるテレビの連続ドラマにうつつを抜かし、そして次から次へと忘れ去っていく。

 何ゆえ、そんな人間になっちまったのか。努力や継続ということと無縁の人間になっちまいやがったのか。

 なっちまったのではない。元々がそんなやつなのだ、俺は。俺ってやつは。俺とか偉そうに言っちゃってるやつは。親が悪い。DNAがいけない。

 かつて、俺には父親というものがあった。十才の時になくした。喪失した。しかし我が無才なる性質をかの御仁のせいにすることはできない。

 どうして? 十才と言えばかなりの部分、性格の素地が形成されている年令ではないですか? それまで一緒にいたんだから、男親としてもうチョーが付くぐらい影響力はあったのではないですか?

 と、そんなふうにおめえさんはおっしゃるかもしれない。うんうん。言ってくれていいよ。十才といえば現代の義務教育単位で鑑みれば小学校の四年生ですからね。四年生と言えばもう、野球だって、将棋だって、駒回しだって、割り算だって、のこぎりの使い方だって、形ぐらいは整えられようってもんだからね。充分にこなすにはまだまだ幼いには違いないが、格好ぐらいはちょいと決められようって、そんなお年頃だ。そんな段階に到るまでの素地作り、性質形成に父親はかなりの影響力を持っていて当然だ。こらこら、そんなふうじゃダメなんだ、とか、ほらほら、こんなふうになっていくのだ物事は、とか、あっはっはー、バカ野郎そんあもなあやめちっめ、そんな言葉なり、態度なりをもってインフルエンスを与えつつ、十才児の人格形成に、陽射しのように熱を、雨のように滋養を、風のようにゆるやかさや力強さを、地面のように落ち着きを、少なからず与えてしかるべきだ。

 ところが、かの御仁、そんなものはちいっとも我が性質に与えてはくれなんだ。

 何ゆえ?

 簡単です。

 そのような時間がまったくなかったからです。

 しょうがねえんだ。

 と、こないだまでの俺は実際、本気でそう思っていた。

 時間がなかったのだ、と。

 だから、彼は俺に何も与えられなかったのだ、と。

 本気でそう思っていた。当たり前だな、ってな感じで。